報われたいのは自分だった

黒猫亭さんへの応答兼私的メモです。ちょっと諄いところがあるのは、自分への言い聞かせだったりするからです。

以前、むくわれたいきもちという記事を書きました。

エントリでは、善意は形になって現れて欲しいという願いは必ずしも報われるとは限らないよ、でもそこで諦めちゃダメだよ。という自分の意見を表明したのですが、実は自分自身がそんな幻想を持ったままだったことに気がつきました。

気がついたのは、黒猫亭日乗へのコメントに対し黒猫亭さんから頂いた返信コメントによってでした。

−黒猫亭さん−
多寡が嘘事の物語にそれ以上の役割を期待すべきではないと謂う言い方も出来るでしょう。

うぉ〜〜これ、自分じゃないか・・・

どらねこツイッターである人あてに次のような事を書いた記憶があります。

ツイッターにて−
(ドラマの原作)あの漫画には野生動物の餌付けに対して戒めるようなエピソードがあるので、人気のドラマでその話を放映してくれれば、誤った理解を正すのに良さそうだ。

今考えると、嘘事の物語に期待する事じゃないですよね・・・

このやり方が通るのなら、商売的な都合を物語りに織り込む事の方がインセンティブがあるから、そっちばかりが増えてしまう可能性が大きいよね。どらねこのアイディアこそ浅はかな善意の押しつけに過ぎないような気がしてきました。批判対象と同じじゃん、どらねこ・・・。

−黒猫亭さん−
正義は行われなければならない、善意が存在しなければならない、問題は解決されねばならない、そのように努めることには意味がある、そう信じることがまず重要なのだと思いますし、その正義や善意が何をしでかすのか、と謂うのはその次のステップの問題なんだろうと思います。


そう、まず最初のステップなんですよね。これをクリアーして、その次に何が出来るのか、という事なのです。そうして、実に嬉しいことにどらねこの身の回りにある漫画や小説、ドラマやゲームではそのようなワクワクするような正義の話を語ってくれて居るんです。そうして現実に多くのヒトがワクワクしていて、スカッとして居るんですよね。そうした娯楽が売れているのを見ればそんなのわかります。日本はその点に於いてとっても健全であるように見えます。某ト知事が考える以上にね。娯楽は娯楽のままで良いのですよ、現実世界の実際の行動に影響を与えるモノなんて考えちゃいけない・・・。

−黒猫亭さん−
オレはよく誰かを批判する際に「心映えが醜い」と謂う言い方をしますが、人の行いにおいて公に共有された美醜の感覚が欠落した人間のやることは信用出来ません。それはつまり、社会的なコンセンサスに背いても自身の利益を優先させる人間だと謂うことになるからで、これは同時に「世間の目を気にするべきだ」と謂う意味でもあります。

この美醜の感覚は長い年月をかけ培われてきたモノであると思います。美醜の感覚ソレ自体は物理法則のように不変・自明ではないけれど、現代社会ではある程度公的に認知された確実な概念である正義・善行として語られる存在になったのだと思います。グダグダと書いたけど、道徳・倫理というヤツですね。

でも、上に書いたように、どらねこの印象では娯楽に正義や善行が溢れているのだから、正義感は娯楽に任せて大丈夫な気がするのです。必要以上に道徳として取り扱う必要なんてないんじゃないかな、などという暴論も思い浮かんだりします。道徳意識が希薄だったら、こんなに善意や正義が娯楽として消費されないだろうからね。

大抵のヒトは『オレが正義だ。オレが気にくわないからアイツを裁いた!』なんて謂うヤツ居たらおかしいんじゃない、とか反感を持ったりすると思います。何の根拠もなく自分を正義と騙り勝手な都合で悪を見つけて裁くという事がおかしいというのはある程度共有されていると思うのね。正義には根拠が必要で、正義に拠って為された行動が何をもたらすのか、そこまで確認して、初めて正義の行う善行として認められる事でしょう。

破壊の化身が降臨した→皆の願い(破壊の化身は退治されなければならない)→正義○

正義の代行者登場→破壊の化身を退治→退治の為に願った皆が全滅→善行×

後者に対して正義が行う正しい行為(善行)であると認識するヒトは日本にはあまりいないような気がします。でも、実際はトンデモ主張を正義や善行として結構支持されているのを見かけたりします。しつこいですけど、野生動物に対する餌付け的行為や、微生物団子の投入運動とか。それが社会的に意義のある行為、善行として認識され受け入れられたりするのは詭弁に因り糊塗され一般には見分けにくくされているからなのでしょうね。
でも、コレって詭弁で取り繕う必要があるほどにはヒトは理性的で論理的なのでしょうね。ただ単に正義を振りかざしても支持をもらえないほどに。

その根拠としてニセの科学理論が登場せざるを得ないのですね。ニセ科学はヒトが正義や善行を論理を大切にするからこそ生まれてくるのかも知れません。

自然保護団体に賛同する方達もそのステージにたっている。だからこそ、彼らの行為を批判する方策としては嘘事の物語に頼らない現実であるべきだし、その行為がどのような事態を招くのか淡々と事例を紹介していくことが大切になるんだろうなぁ、どらねこはそう思ったのでした。
次の世代の方達は次のステップに踏み出せますように。