もうダマされない為の読書術講義(?):その5

もう忘れてしまった人も居るかも知れませんが、ようやく再開です。

・・・これまでの遣り取り・・・


もうダマされない為の読書術講義(?):その1
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111016/1318728079


もうダマされない為の読書術講義(?):その2
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111023/1319367371


もうダマされない為の読書術講義(?):その3
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111107/1320660719


もうダマされない為の読書術講義(?):その4
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111217/1324125369



■最終章
ついに年をまたいでしまったもうダマ書評シリーズですが、ようやく最終シリーズの第4章に突入します。

どらねこ:やぁおひさしぶりですクロネコッティさん、どんちゃん、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。

みつどん:おめでとうございます。いやあ、終わらないまま年あけちゃいましたねぇ。

黒ぬこ亭:明けましてはけつかうな春が来たと謂う事なのである。

みつどん:はい、おめでとうございますクロネコッティさん・・・ってどらちゃん、なにやってんの(笑)。

黒猫亭:テキストベースだとネタがイマイチ伝わらないと思うんだけど、今のはオレじゃないですよ(笑)。どらちゃんらしいと謂うか、どらちゃんの中ではオレはそんなイメージなのか(笑)。と謂うわけで明けましておめでとう。今回は分量も増しそうだから、さっさと本題に入ることにしましょうかね。


■それぞれの印象
みつどん:じゃあ最初に感想を述べるのは僕の役割だと思うから、早速。

どらねこ:で、どらが疑問を呈して、どんちゃんが軽くフォローを入れて、そのあとクロネコッティさんが「いや、それは違う!」と割って入るわけですね。

黒猫亭:なんだかオレばかり憎まれっ子になって割を食っているような(爆)。

みつどん:まあ、僕は他にたっぷり食べてますので。 ええと、先ずこの章ではいわゆる「学史」の説明部分は素直に面白く読みました。ただ、一貫して語られる「科学技術のガバナンスのあり方と民主化」において、当然問題になるだろう「知識の非対称性をどうカバーするか」という部分が今ひとつ詳らかでは無いな、と。

どらねこ:うん、具体例がえーと・・・しょ、詳らかでないというのは感じましたね。

黒猫亭:つまびらか、ですよ。今度はテキストベースで無いとわからないネタをもってきて(笑)。さて。具体例が無いのは当たり前で、STSは元々科学者やそれを扱う技術が社会的・文化的にどのように振る舞うのかを社会学的な分析課題とするような学問であったわけで、「科学者は現状それでいいのか?」と謂うような問い掛けを行って、本来あるべき姿を提示をするような規範論なわけですから、そこからどうするかを具体的に提示するような学問でもないんですよ。

みつどん:生命科学と倫理の問題でも問われるような内容ですね。でも、その場合はある程度具体的な話が出て来ますよね?

黒猫亭:生命科学であれば対象が限定されているでしょう。それに比べると、科学技術の範囲は途轍もなく広い。科学者すべてを対象にもできない。

どらねこ:科学全体に話が及んで本質論まで踏み込んで「こうあるべき」と提示すると、どうしても主語が大きくなりますね。

みつどん:大きいことは良い事ですよ?

黒猫亭:規範論に留まるのならまだしも、それを科学内部の問題であるとか「科学の不確実性」にまで言及し、さらには科学を市民のものへ、などと本来の学問範囲を超えることを述べてしまっている。

どらねこ:なるほど。つまり

みつどん:つまり権力と科学の関係性の話で閉じているなら、「知識の非対称性」は対応すべき懸案事項の1つに過ぎないし、権力が如何に専門知識を扱うか、と謂うより普遍的な問題でもある。STSサイドから具体事例を出す必然も無い。

どらねこ:ぱくぱく・・・で、でも

みつどん:でも、それが関係性を飛び越えて科学の民主化を唱えるというならそれは話が違ってくる。この場合、知識の非対称性は単なる懸案事項というより「焦点」となる。そこが最大の問題点なのは明らかなのだから。本来必要の無い具体事例の提示が「詳らかで無い」と感じるのは、STSとしての学問範囲を超えた所にまで話が広がった結果だ、という主張ですね。なるほど。

どらねこ:ぷー

黒猫亭:まあまあどらちゃん、すねなさんなよ。それが美味しいところに目がないゼイニィの習性なんだからさ。


■個別の内容はそんなにおかしくない?
どらねこ:ぶっちゃけ、平川さんの章って人によってすごく評価が違いますよね。どらの周りは悉く芳しくないのだけど、ネットでは評価の高い意見も結構見かけます。どらねこは特に先入観無くこの章を読み始めたのですが、なんとなく違和感はあるものの、最初は違和感の正体がはっきりわからなかったんですよね。あと、一つ一つには賛成できる部分もありました。

黒猫亭:おやおや、どらちゃんは早くも敵対モードですかー、へーわしゅぎしゃのボクとしてはかんしんしないなー(棒)。

どらねこ:しらじらしいなぁ、「ボク」って誰やねん・・・

みつどん:まあ、ボクとしては平川さんの提言それ自体はさほどオカシナモノでは無い印象がありますね。判断の分かれ道はどんなところにあるのかな。

どらねこ:うーん、これは文章を読んでどこまでを想定するのかによって印象は違うのかも知れませんね。例えばコストの問題とかの実現可能性などを考えると空虚に見えるお話なんてのも現実には色々ありますものね。

みつどん:先述した知識の非対称性の問題や、例えばコミュニケーションの負担をどこが払うか、科学者に対する負担増をどのようにして緩衝するかなど、実現に向けての肝心なところが書かれていませんね。

黒猫亭:結局そこに行き着くんだけどね、STSが一種の規範論だとすれば、コミュニケーションの実現に向けて実践的に運用できるツールではそもそもない、さっき言ったようにこれが一つあります。そして、ここがもっと重要なんだけれども、平川さんの文章を読むと、STSがどんな学問であるかを誤認させるような書き方になっている。そこが、謂ってしまえば一種の詭弁臭や胡散臭さの印象に繋がっているんですよ。

どらねこ:ああ「詭弁」とまで言ってしまいましたか(笑)。

黒猫亭:申し訳ないけど、そう言わざるを得ないですね。もっと言うと、この章は普通にさらっと読めばそれなりに筋が繋がっているように読めるのだけれど、子細に検討すると実は繋がっていないロジックを言葉の印象だけで繋がっているように見せ掛けている部分が多々あると思いますよ。悪意的に言えば、それこそポストモダンの常套手段じゃないの?と(笑)。

どらねこ:あらん、そーかしら・・・ああええと、自然科学者からも評価されるメタ科学はそう謂った欺瞞が無い場合が多い気がしますね。逆に陥ると相対主義的な方のたまり場になりやすいような。とはいえ、そこから一歩踏み込んだ議論をなさっている方もいらっしゃるとは思いますが。

黒猫亭:ええ、前回図を引用させていただいたJ_Stemanさんのお話からオレが理解した範囲では、STSって「リスコミをやる学問」でもなければ「トランスサイエンス・コミュニケーションをやる学問」でもないんです。それらを具体的に実践する学問領域はまた別にあって、STS科学技術社会論と謂うのは社会と科学技術の間の関係性を探る学問ですから、それらの隣接分野の学問を俯瞰し協働するような形で科学のあるべき姿を模索していくわけですね。

どらねこ:にゃるほど、そうすると後半のトランスサイエンス・コミュニケーションの部分について、多くの読者から「当事者意識がないんじゃね?」「誰がそれをやるの?」という感想が出るのも仕方がない、と。

黒猫亭:別の意味でも仕方がないんですよ。あの書き方だと「トランスサイエンス・コミュニケーションをやるのはSTSだ」と読めるのに、その割には誰か他の連中がやることだと謂う前提になっているので、そう謂う感想が出るのは当たり前だと思いますよ。で、前もって確認しておきますが、これは別段平川さんを擁護しているわけではなくて、その逆です。読み手がそう謂う矛盾を感じるのは、要するに平川さんが意図的にそう謂う書き方をしたからだとオレは考えているんです。

どらねこ:さすがは「へーわしゅぎしゃ」のクロネコッティさんですねぇ、初っ端からやる気満々じゃないですか(笑)。

みつどん:では、そろそろその辺を具体的に検証してみましょうか。


■科学はホントに不確実なの?
黒猫亭:じゃあまずオレから行きましょう。この章の前半では「BSEGMO→科学の不確実性→未知のリスク」と謂うロジックが語られていますね。これについてご両人はどう思われますか?

みつどん:学史的な説明として、ふむふむと素直に読みました。多少引っかかる所もありましたが、まあ専門家の言う事なのだし、と。それなりに筋は通ってると思いましたが。

どらねこ:そうですね、どらねこもそうは思うのですが、ただ少し妙な違和感を持ったのも事実で。どこがどうと謂うわけではないんですが、「未知のリスクがあるのではないか」と謂う表現は、やはり少しでも自然科学を囓っていると違和感が残る表現ですね。

黒猫亭:オレは初読時からここがずっと引っ掛かっていて、どうもロジックに胡麻化しがあるんじゃないかと疑っていました。それでここで挙げられている問題をいろいろ調べている内に、どう謂う胡麻化しがあるのか大体整理が附いたんですが、普通STSの話でBSEGMO*1の話題が出て「科学の不確実性」の話が出てくるのってよくあるパターンなんですよね?

どらねこ:ええ、大体そんな感じで歴史性を説き起こすのがパターンのようですね。

黒猫亭:だから、何となくここはSTSの概説を常套的なストーリーで語っているように見えるんですが、細かいところでロジックが変なところがたくさんあるんですよ。まず最初にBSEの問題ですが、平川さんはここで「科学ではわからなかった未知のリスクがあった」と謂うように意味附けて、そこからGMOについても「未知のリスクがあるのではないか」と謂う市民の科学不信が起こった、と謂うストーリーで語っていますね。そこがまずおかしい。

どらねこ:と謂うと?

黒猫亭:逆に伺いますが、英国のBSE問題では、本当に科学者はBSEがヒトに感染する可能性をまったく予想出来なかったのでしょうか?

どらねこ:え、現実問題として「ヒトには感染しない」と発表されたから政府や科学に対する不信が起こったわけでしょう? だったら、ヒトへの感染可能性を見誤ったと謂うことじゃないんでしょうか。

黒猫亭:どうもその辺がややこしいのです。本書で触れられているサウスウッド報告書についてわかりやすく俯瞰するには、農畜産業振興機構のHPのこのページ(http://www.alic.go.jp/consumer/livestock/bse-report02.html)を参照するのが好いと思うんですが、ここに掲載されている2000年10月に公開されたBSE問題についての調査報告書第1巻3、4節を読むと、「BSEがヒトに感染する可能性は非常に小さい」と謂うサウスウッド報告書の結論は、厳密に謂うと「BSE人獣共通感染症ではない」と謂う意味ではないらしいんですよ。

※報告書の邦訳より本文を参照してこの話題を論じる為に必要と考えられる箇所を引用したエントリを別途作成しております。必要に応じ、参照をお願いします。


科学の結論は間違っていたのか?「サウスウッド報告書邦訳」から考える
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20120222/1329997356


みつどん:う〜ん、結果的には「ヒトに感染する可能性は非常に小さい」と報告したんだから、大筋では結論が間違っていたという事になるんじゃないですか?

黒猫亭:そこが微妙なんですよ。たしかにサウスウッド報告書では「BSEは牛のスクレイピー(羊海綿脳症)だ」と謂うワイルスミスの意見を支持しているように見えるんですが、この見解は厳重な情報管制が行われた発生当時の状況で限定された情報から出した暫定的な意見ですし、情報が限定されている以上はそれ以上の結論は出しようがない。実際にワイルスミスの仮説は後に誤りであったことが証明されるわけですが、この時点では単なる「意見」です。

どらねこ:羊海綿脳症だったら随分昔から知られているけれど、その間に羊からヒトへの感染が認められた例がなかったから、BSEも大丈夫だろう、と謂う話だったわけですよね。

黒猫亭:そのワイルスミスの意見がサウスウッド作業部会の楽観的判断に影響を与えた可能性は、2000年の調査報告書でも指摘されていますが、それと同時に「もしも感染した場合には重大なリスクがあるから、可能な限り安全な手段を講ずべきだ」と謂う主旨の有効な提言も幾つか為されています。その提言に基づく幾つかの条件が満たされることを前提に「ヒトに感染する可能性は非常に小さい」と結論附けているんですね。実際、同報告書では「もしもBSEがヒトに感染するならCJDとして表れるだろうから、そちらのほうも研究すべきだ」と提言されています。

どらねこ:にゃるほど、だから「BSE人獣共通感染症ではない」と謂う結論ではなかったし、ヒトへの感染を予期出来なかったわけではない、と謂うことになるわけですね。でも、ワイルスミスの意見が作業部会の判断に影響を与えたと謂うなら、やっぱり彼らは内心そう謂うふうに思っていたと謂う意味にはならないでしょうか?

黒猫亭:ええ、この調査報告書でも別段サウスウッド報告書に問題はなかったと謂う結論にはなっていません。幾つかの点では功績があったけれど、致命的なミスもあったことは事実であって、それはBSEがヒトに感染する可能性を十分に強調しなかったことだ、と言っています。一方では「感染したら大変だからこれこれこう謂う手を打つべきだ」と言っているのに、他方ではこれを閲読した者に「ヒトへは感染しない」と謂う強い印象を与える書き方をしたことは矛盾した姿勢で問題だった、と謂うことです。そして、重要なことは、この時点ではサウスウッド作業部会に「BSEが何であるか」について確実な結論を出せと言われていたのではなく、「現状でどうすれば好いか」が問われていたと謂うことです。

どらねこ:この時点ではBSEは「未知のリスク」そのものだったわけですから、「BSEが何であるか」については、科学の側から確実な結論が出せていなかったわけですね。わからないものはわからないものとして扱うと謂うのが科学の原則ですから、そう謂う「わからないもの」の取り扱いに失敗したと謂うことになるわけですか。

黒猫亭:それにはさまざまな要因が絡んでいると謂うことがこの調査報告書で述べられていますから、興味があったらご一読をお奨めしますが、政治や産業に対する配慮や、逆に外部からの積極的介入と謂う要素も強かったと謂うことは言えるでしょう。突き詰めて謂えば、科学の問題としてはこの段階では「BSEが何であるかはまだわからない」としか言えなかったし、実際にそう言っているんですよ。まだわからないけれど、事態を収束する為にはどう謂う方法を採れば好いのか、と謂うことを提言したのがサウスウッド報告書で、要するにその意見の強度のバランスがBSEの蔓延とCJDの感染を未然防止するには現実問題として不十分だったのです。

どらねこ:たしかに、水俣病の問題なんかでもそうですが、未知のリスクが顕在化した初期段階で科学に出来ることには限界がありますね。そして確定的な結論が出るまでには長い時間がかかります。科学はわからないものをわからないとしか言えないわけですから。このような問題についての現実的政策の判断を科学者ばかりのグループに求めた事にも問題があった、と。

黒猫亭:そう謂う流れになるはずなんですよ。それはまさにSTSが取り扱うべき問題領域でしょうし、サウスウッド報告書が何故あのような失敗を犯したのかと謂うことについては、飽くまで人間の振る舞いに関する問題なのですから、失敗学のようにヒューマンエラーを詰めていくアプローチもあるでしょうし、科学者の振る舞いに内在する構造的問題や社会における科学の在り方を考察すると謂うアプローチもあるんでしょう。だから、この問題について「科学の不確実性」と謂う言葉を遣うのであれば、本来は「わからないものをわからないものとして扱う」と謂う、科学の基本的な手法に内在する非確定的な性格を指しているはずなんです。

みつどん:BSE問題による「信頼の危機」と併置して「科学の結論がまちがっていた」という風に書かれると「科学の知見は不確実で信用できない」という意味に読める。しかし、「わからないものをわからないものとして扱う」「物事を確率的にしか予測しない」という方法論自体は「不確実」ではなく「確実」なんですよね。「科学は絶対確実だ」という一般的認知に対し、「科学は絶対確実だと言わないから確実なんだよ」というのが「科学の不確実性」、と。

どらねこ:ああ、ずっと黙ってたと思ったらまたどんちゃんが美味しい所を・・・。科学の方法は現状では最も確実な考察のツールですが、わからないものや確率的にしか言えないことについて唯一無二の選択肢を示すものではない、だから現実問題で決定を行う必要があると謂う場合には「不確実」な意見しか言えない、と謂うことでしょうかね。どらねこは最近、科学的な思考とクリティカルシンキングと客観的思考の違いなんかも考えたりしているのですが、この場面では価値観や文化的背景なども考慮した客観的な考えも大事になるように思うんですよね。

黒猫亭:そんなところじゃないでしょうか。そして、そこからGMOの話に続くわけですが、ここで「消費者の疑い」として挙げられている「BSE問題のように未知のリスクがあるかもしれない」と謂う疑念には論理の飛躍がありますよね。

どらねこ:そうですね。BSEの場合はそれ自体が「未知のリスク」だったわけで、それに対して科学は「まだわかりません」としか言えなかったけれど、GMOについてはすでに十分研究されたものが実用を認可されたわけですから、「未知のリスクがあるかもしれない」と謂う話にはストレートに繋がらないですよね。

黒猫亭:消費者が「政府や科学に対する不信」を理由に論理的に飛躍した疑いを抱いていたとしても、それを「消費者はそう疑った」と述べるのはその限りでは嘘ではありませんよね。事実ですから。でも、これを一連の文脈として読むとどう謂う印象を覚えるでしょうか?

どらねこ:サウスウッド報告書で、実際には「特定の科学者が下した政策的判断」に過ぎない「ヒトへの感染の可能性は非常に小さい」と謂う意見が述べられていて、それが本書では「科学の結論」と表現されているんですから、「BSE問題で科学は『ヒトへの感染』と謂う『未知のリスク』を見落とした、だからGMOでも同じように何か致命的なリスクを見落としているかもしれない」と謂う合理的な疑いであるように思えますね。

黒猫亭:それは実は間違った印象ですよね。サウスウッド報告書が誤っていたのは科学的には「ろくな研究もなく何もわかっていない状況」でリスクの実現を予防する為の現実的判断が間違っていた、不十分だった、と謂う話に過ぎないのに、十分に研究されて認可されている科学研究の成果を同様に論じられるはずがない。つまり、「未知のリスク」と謂う言葉と「科学の結論」と謂う言葉の多義性の相乗効果で、誤った印象が生起しているわけです。しかもそれは、科学に疎い消費者が実際に抱いた疑いと謂う形をとっていて、著者の見解ではないわけですから、単なる事実の叙述に過ぎない。

みつどん:そこは著者から一言あってもよかったですね。

黒猫亭:ところが平川さんはそれについて何ら註釈しない。消費者の疑いが合理的だとも言わなかったが、飛躍があるとも言っていない。それ自体は紙幅の関係とか舌足らずだったと解することも可能ですが、今度はそのような消費者の疑いを受けて、欠如モデルから双方向モデルへ、専門性の民主化へ、と謂う話を説き起こすわけです。そうすると、消費者の疑いが合理的だったと謂う読者の印象はさらに強くなるわけですね。

どらねこ:それに対応する形でさまざまな対話型科コミの施策が打たれ、それらの施策は肯定的に評価されているのですから、非専門家の疑義は妥当だった、と謂う印象にはなりますよね。

みつどん:ぐるる〜

黒猫亭:おやおや、どんちゃんタイマーが鳴ったようだ。そろそろ何かお腹に入れようかな。

どらねこ:と謂うわけで次回につづきます。

*1:Genetically modified organismの略。遺伝子組み換え生物であるが、ここでは農作物の話題として取り扱う。未知のリスクとして俎上に載せられる課題にGMO特有の問題では無いものが見られる事などから心情的な反発が大きいとも考えられる。心情は否定できないが、それは組換え作物への安全性についての科学的結論に関係する問題では無い。従来的な品種改良でも起こりうる危険性にまで言及した主張を正当なものとして厳密に運用すれば安心して食べられる食べ物が十分に行き渡らなく事態が予想される。