もうダマされない為の読書術講義(?):その8


もうダマ書評シリーズついに最終回です。

・・・これまでの遣り取り・・・

もうダマされない為の読書術講義(?):その1
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111016/1318728079


もうダマされない為の読書術講義(?):その2
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111023/1319367371


もうダマされない為の読書術講義(?):その3
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111107/1320660719


もうダマされない為の読書術講義(?):その4
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111217/1324125369


もうダマされない為の読書術講義(?):その5
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20120223/1329998568


もうダマされない為の読書術講義(?):その6
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20120224/1330075719


もうダマされない為の読書術講義(?):その7
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20120309/1331293370

・・・補足エントリ・・・


科学の結論は間違っていたのか?「サウスウッド報告書邦訳」から考える
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20120222/1329997356


トランス・サイエンスの時代を読んでみた(前編)
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20120307/1331133987


トランス・サイエンスの時代を読んでみた(後編)
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20120308/1331203993

どらねこ:――さて、前回の結論は「天ぷらは衣を剥がすと全部タマネギ」と謂うことでしたね。はっはっは・・・

みつどん:違う違う、冒頭から何を口走ってるの。

黒猫亭:衣を附ける職人は剥がれ落ちる事の無いよう技術を磨くわけだ。美味素材を更に美味しく食べさせる方向に労力を費やして欲しいものだよな。

どらねこ:・・・意味深?


■リスコミは科学者の役目?
黒猫亭:遊びの時間はこれまでだ。さあ気を取り直して、そろそろ仕切ってもらおうじゃないか(笑)。

どらねこ:え、え〜と、前回は天ぷら・・・でわなく、欠如モデルがある種「レッテル貼り」として分断に利用されている問題を見て、さらに科コミュの問題として語られている事柄は実はリスコミの問題だったのではないか、と謂う辺りまで踏み込みましたので、今回も引き続きリスコミの問題を考えてみたいと思います。

黒猫亭:本来なら、原発事故後のようなクライシス状況で問題になるのはリスコミのはずであって、しかもリスコミは科学者集団の問題ではなく公的発信の方法論の問題であるにもかかわらず、平川さんの章ではそこをトランスサイエンス・コミュニケーションの問題として科学批判の文脈で論じているから強い違和感を感じるんだ、と謂う話でしたね。

どらねこ:そもそも科学者自身をリスコミの主体として想定する、と謂う見方は妥当ではないと思うんですよ。科学者はやはりサイエンス・コミュニケーションを行う立場であって、そこはそれこそ菊池誠さんが言ったように「血も涙もなくやる」と謂う領域なんだと思います。

黒猫亭:前回も「当事者性」と謂う問題を語ったのですが、リスク・コミュニケーションと謂うのは、基本的に直接的な責任主体が行うものだと考えるのが妥当でしょうね。たとえば企業であったり行政であったり。科学者はその際に客観的指標となる知見をアドバイスすると謂う第三者的な立場で、直接的な責任主体ではない。こう謂う認識はSTS的にも間違っていないはずですよ。トランスサイエンス的問題領域と謂うのは、要するにそう謂うことでしょう?

どらねこ:そうですね、トランスサイエンス的問題領域と謂うのが「科学なしでは解けないが、科学だけでは解けない問題群」であるならば、必然的に科学者の立ち位置はあくまで科学に限定されたアドバイスの提供者という形になりますね。土台、クライシス状況やトランスサイエンス状況において、科学者を当事者的な立場として想定すること自体無理があると思います。

黒猫亭:震災・原発事故後の状況では、いろいろな分野の科学者がツイッターで盛んに情報発信を行っていたのだけれど、それは基本的にはリスコミではないし、リスコミたり得ないわけでね。しかも、原発事故後の流言やデマへのカウンター情報と謂うのは、「科学技術の受容」の問題でも「科学の社会的評価」の問題でも何でもない、謂わば潜在的情報ニーズに対するサプライであったに過ぎません。そこをわざわざ手前味噌な詭弁でトランスサイエンス的問題に牽強付会したことで論旨の混乱があったんじゃないかな。

どらねこ:その繋がりで謂うと、ツイッターのようなSNSがリスコミに果たす役割と謂うのはどうなるんでしょうね?

みつどん:それについてはボクは少し悲観的に考えていて、リスコミでは文脈が重要になりますが、ツイッターのRTみたいに切り取られて拡散される、しかも140文字の言葉では情報発信として非常に危ういと思います。

黒猫亭:ツイッターやSNSが果たす役割は、基本的にトップダウン型で慎重に情報ソースの一元化を図るべきリスコミとはまた別種のものだと思うんだよね。寧ろSNSを通じたサイエンス・コミュニケーションこそが、トランスサイエンス・コミュニケーション的なコミュニケーションの形じゃないですかね。

みつどん:それにしても、やっぱりどうしても気になるんですが、たとえば平川さんが本章で科学者に求めているようなことを実現できる科学者って存在するんでしょうかね?

黒猫亭:いや、STSがトランスサイエンス・コミュニケーションを実践する主体でないのと同じくらい、科学者一般はその主体ではあり得ないですよ(笑)。そもそも科学者の情報発信と謂うのは個人のボランティアにすぎず、個人の善意や労力の持ち出しに依拠するシステムと謂うのは、根本的な脆弱性を抱えていると言わざるを得ない。大学教授だってそんなにヒマじゃないんでね、職業的な業務として成立してない行為を手弁当でやるには限界はあるし、そもそもそんなこと強要出来た筋合いでもない。

どらねこ:実際、学校教育に関わる人々は大変ですよ。研究、教育、学校内雑務、地域貢献などいろいろなことにかり出されて、しかもその為に本業の論文創出力が落ちれば命取りになると謂う過酷な立場ですよね。ですから、その合間で科学者が科コミュをやるのはボランティア的なモノがほとんどですし、そこで何をやろうと本来は自由なはずですよね。それについて「これではダメだ」とか文句を謂われる筋合いは無いんですから、本来は「要望・提案」として持ちかけるべきたぐいの意見ではないかと思います。

みつどん:それを「科学者としての義務だ!やれ!」って強要するのは、サービス残業を強要するブラック企業の論理ですよね(笑)。その部分を担うプロが社会システムで担保されてないと本来はおかしいはずなんですよ。科学者一般には「学問の知見を社会に還元する」という理念的な責任はあるかもしれないけど、社会システム上何らかの役割を担わされているとはとても言えない状況にある。

どらねこ:では、科学者ばかりに負担がかからないようにするにはどうすればいいのか、と謂う事になりますが、科学者に対する負担増を軽減するためにはマスメディアの協力が不可欠だとどらねこは考えます。論点を整理し、それを可視化して伝える事も大事になってくるのだろうと思いますから、本来はそうした役割をマスメディアに求めたいところですね。

黒猫亭:結局はそうなりますね。マスメディア一般がこの危機的な状況に至ってすら平時の視聴率至上主義や売上至上主義的なモードからまったく変わらなかった。勿論、一部のジャーナリストは良い仕事もしているわけですが、メディア全体の空気がモードチェンジに至らなかったことに一番の問題があるでしょうね。震災関連の報道で気を配らなきゃいけない事なんて、ミニスカはやめてダークスーツにするとかヘルメットを被るとかお笑い番組を自粛するとか、そんな上っ面のレベルの話じゃないはずなんですよ(笑)。

みつどん:政府や行政のリスコミスキルの低さが状況に輪をかけてしまいましたね。

黒猫亭:そうですね、平川さんも別のところでは「政府の中にリスコミの専門家がいなかったのが問題だ」と言っていますけど、ハッキリ言って、それさえ言えば話は終わりじゃねーの?と謂うことなんですよね(笑)。われわれがSTSに興味を抱いたきっかけも、「この非常事態に『リスコミの専門家』はなんで死んだフリしてるの?」と謂う疑問だったわけですから。

みつどん:いざクライシス状況になった途端、この国にはリスコミの専門家なんかいなかったんじゃないか、と。

どらねこ:そこで、政府や行政とマスメディア、そして客観的指標としての科学的知見を提供する役割の科学者の間を橋渡しする役目を担う人も必要となってくると思います。STSはそこを考える学問領域でもあるわけでしょう? リスコミをコーディネートする側の不手際によって不信があるのなら、その責任を科学者集団に問うと謂うのは無理筋では無いかと思います。

黒猫亭:実際、そう謂う学問でもあるはずなんだけど、そう謂う部分は表に出ないで一部の人の恣意的なSTS概念の濫用ばかりが目立つ状況ですね。

みつどん:現状の一部STS*1の人がやっていることは、「科学者達はあんな事を言って市民目線じゃ無い、俺たちの敵だ!御用と謂われても仕方が無い!」と謂うような感じで、市民に寄り添うと言えば言葉は良いけどむしろ「市民の味方」を演じることに汲々としているような感じを受けます。それは、STSに今後求められる役割と逆行しているようにも思うんですが。

どらねこ:どうも平川さんが日頃仰っていることを見ると、その「市民」と謂うのもどうやらわれわれとは全然違う人々のことを言っているみたいで(笑)。言葉は悪いけど所謂「プロ市民」みたいな人々のことを指しているとしか思えないんですが。

黒猫亭:それについて東浩紀さんが面白いことを言っていますね。熱心に政治に興味を持って勉強してブログで何か書いたり市民運動で何かを主張したりしているような人々は、そもそも「独自の意見」を持っているわけだから「独自の意見」を持っている時点で世間のマジョリティから乖離しているんだ、と謂う話をしていました。オレはそれには一理あると思いますよ。

どらねこ:世間のマジョリティの人々は、まず自分や家族の生活が最重要の関心事であって、その為に自分が持っているリソースの大半を割かねばなりません。反原発運動を生活の最優先課題にして昼間っからテント村で張り込んだりは出来ないですよね。ブログでまとまった記事を書けと謂われても、考える時間もなければ勉強する時間も十分に確保する事は困難でしょう。

黒猫亭:そう謂う意味では、いろいろ調べてブログを書いたりツイッターで社会問題を論じたりしているわれわれも、世間のマジョリティとは乖離していると謂う理屈になるんですが(笑)、本来「市民」とは普通に働いて生活をしている平凡な生活者の謂いであるべきなんですよ。そこでSNSを介してそう謂う人々の「一般意志」を可視化していくことで政治にマジョリティの声が反映されるのではないか、と謂うのが東さんの主張なんですが、まあそれは脇道なので措くとしましょう。

どらねこ:核心となるのは、「独自の意見」を持った極特殊な一部のマイノリティだけを「市民」として扱うことの危険性ですね。たとえば、科学者は信用出来ないし当事者がリスコミをするのも各種バイアスが心配されると謂うのであれば、第三者的な立場の機関を用意することになりそうですが、それを政府が用意したら、「一部STS関連の人が容認している御用」呼ばわりされて終わりでは無いんですかね?

黒猫亭:そうなんですよ。政府の味方をすれば御用だと謂う理屈で謂えば、政府が何をやってもそれに協力する人間や組織は御用だと謂う結論になる(笑)。何処が違うのかと言うと、平川さんが言っているような「市民」がそれを認めるか認めないかと謂うだけの違いになるわけですから、煎じ詰めれば「プロ市民側の御用」ではないと謂う保証がないと謂うことになります。

どらねこ:結局イニシアチブ闘争みたいな性格の議論になるわけで、つくづく不毛ですね。社会システム論でも何でもありません。




■ここまでを振り返り
黒猫亭:そんなところで論点も出揃ったと思うので、そろそろどらちゃんのほうから手仕舞いの段取りに移ってもらおうじゃないか。

どらねこ:いやー、ホントにこの章のレビューは長かったですねぇ、以上。

黒猫亭:・・・こらこら!(爆)

どらねこ:ちょっとしたおしゃまなジョークですよ(笑)。じゃあ、例のパターンでここはどんちゃんから先に何か総論めいたものを・・・

みつどん:いやー、ホントにこの章のレビューは長かったですねぇ。

どらねこ:をひ。

みつどん:天ぷらから始まりましたので天丼で(笑)。この章に関しては問題設定の前提部分に齟齬を感じて、そこが違和感に繋がっている気がします。結局のところ、STS専門家である平川さんに期待していたのは、原発事故を契機に科学技術不信が科学不信や専門家不信にまで広がりかねない現状の分析と改善策であって、従来型の科学コミュニケーションの「限界」を知りたいわけでは無いんですよね。ところが本章は終始欠如モデルやリスコミに於ける科学の「限界」部分の指摘に終始している。

どらねこ:これまで見てきた結論としてそう謂う事になりますね。

みつどん:あまつさえ、「限界」をあたかも「課題」や「欠陥」のようにあげつらっている、ようにも「見える」。情報発信の多様化とかトランスサイエンスコミュニケーションの促進とか社会的対話の醸成とか色々と提言もしてますが、そこでも科学者はどこか蚊帳の外に「見える」。それで科学の民主化とか言われると、やはり違和感を禁じ得ないですね。最後の「分断を越えて」という言葉に非常にもやっとしたものを感じます。

黒猫亭:ぶっちゃけて言えば、「クライシス状況からの信頼の危機」と謂う英国のBSE問題以来の想定ストーリーがあって、今回の事故でもそう謂う「美しいストーリー」が実現するように一生懸命不信を煽っていたような印象ですね。

どらねこ:そうですね。結論としては「ダマされない為の本に騙すようなロジックを使っちゃダメ」と謂うことに尽きるのでしょうね。クライシス状況からの「信頼の危機」と謂っても、それは子細に検討すれば政策判断の失敗だったわけですから、科学の知見それ自体の信頼が失墜したような印象を与えようとするのは行きすぎでしょう。本章のレビューではその辺の「誤った印象」を与えるレトリックについて詳しく見てきたわけですが、われわれは元々STSが科学者と市民の間の分断を橋渡ししてくれるものとばかり考えていたので、そこは正直驚かされたところですね。では改めてクロネコッティさんは・・・

黒猫亭:まあ、「その6」までで大体オレが言いたいことは言い尽くした感はありますけどね(笑)。原発事故後の状況で科学者が発信していた情報は、人々がより良い選択肢を選ぶための有力な指標となり、頭では割り切れない感覚的な恐怖と戦うための強力な武器になったはずですよね。しかし、世の中には世間の人々が冷静な判断力を取り戻しては困る人々が一定数存在して、科学者と市民の間の分断を画策していたわけで、平川さんがどう考えているかはオレの与り知るところではないですが、本章のような意見がその分断を強力に後押ししていたのは事実だし、その責任の一端があると謂うことはもう言ったよね。

どらねこ:どらねこが懸念しているのは、人々の不信や分断を煽ることが廻り廻って社会の高コスト化を招くのではないかと謂うことなんです。科学政策や科学者側からの提言が市民から不信を買ったとしても、社会はそれなしでは進まないと謂うことも事実です。自分たちの感情ばかりに寄り添う意見を推し進めてうまくいくとは思いません。たとえば、科学者が同じ事を一般に向けて語るとして、科学に対して信頼の高い場所で語るのと、科学に対して不信のある場所で語るのとでは、前者のほうが科学者の伝える情報が広く受け入れられると謂うのは当然ですよね。

黒猫亭:うん、情報伝達において「不信」と謂うのは最大の阻害要因ですよ。

どらねこ:失った信頼を取り戻すにはどうすべきか、と考えることも大事なのだと思いますが、そもそも、同じ労力で広く受け入れられるほうが社会的効率が良いのは謂うまでも無いことです。しかし、何となく科学者に対する信頼が揺らぎかけている社会において、マスコミでも評論家でも科学者や科学一般に対する不信を煽るような言説を流す人がいたらどうでしょう?

みつどん:受け入れる側のハードルは確実に上がりますね。結果的に「現時点で一番確からしい情報」がノイズに掻き消されてしまうおそれがありますし、ノイズに負けないよう出力を上げれば、その分余分なコストが必要になるでしょう。

どらねこ:対話するに値しないような屁理屈や態度を前面に掲げ、何を謂われても取り下げないような相手を前にして双方向のコミュニケーションなど成り立つ筈が無いですから、説明する側も事実を繰り返すことにならざるを得ないですよね。それは結局全体的な社会コストの高騰を招きます。でも、ただでさえクライシス状況と謂うのは膨大なリソースを効率良く投入することが必要とされる場面ですよね。そんな場面で高コスト体質化を招くような行為は果たして支持されるべきでしょうか? どらねこは大変疑問に思います。

黒猫亭:科学技術と社会の関係を探る学問なんだから、ホントは正当性と効率を高度に両立させる在り方を探るのが筋なんじゃないかと思うんだけど、結局やっていることは不条理な高コスト化を後押ししているだけ、と謂うことかな。

どらねこ:クライシス状況における科学コミュニケーションの在り方に批判的に口を挟むなら、その批判もまた「クライシス状況における科学コミュニケーション」の枠組みに組み込まれると思うんですよ。たとえば仮に「欠如モデル的」なコミュニケーション姿勢の科学者が妥当な情報を発信していたとして、その人の姿勢の問題を公に指摘する事が「科学コミュニケーション的に」どんな利点があるのか、と。

黒猫亭:それを「学問の実践」の観点で謂うと、単なるプレゼンテーションとしての意味しかないと思うねぇ。「ほら見なさい、こんな姿勢の人を欠如モデルと言うんですよ」みたいなね(笑)。それって結局何の役に立ったの、と謂う話でしかないね。

どらねこ:「いや、STSはそういう学問じゃないから」と言うのならそれこそクライシス状況でのSTSの存在意義に関わりますよね。だったら今は情報収集と分析だけして落ち着いたら色々提言してね、と。

みつどん:それどころか一部の方は不毛な対立を煽るような姿勢に見えるですよ。がるるぅ〜。

黒猫亭:みつどんさんにしては珍しく荒ぶっているなあ(爆)。よっぽどお腹が空いているのですね。




■まとめ
どらねこ:そろそろ本気でまとめに入りましょうよ。クロネコッティさんとどんちゃんはこの記事を覚えてますか?

震災後の社会不安に役立つ(?)社会心理学の知見
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111009/1318133170

みつどん:ああ、ありましたねこんな記事。

黒猫亭:難解な専門用語に見えるけど、要は日常的な場面でよく見掛けるバイアスを解説しているわけだよね。

どらねこ:コミュニケーションってホントに難しいと思うんですよ。誠意を尽くして語ったとしても、相手に自分の考えている事を間違いなく理解してもらうのは極めて困難です。それを承知のうえで、なるべく理解の妨げになる要因を取り去り、対話を通じて共通理解を作り上げていくモノだと思うのです。

みつどん:そうですね、異なる立場や様々な経験から互いに欠けている視点や知見などを補い合い、目標を達成するためのより良い方策を方策を探っていくようなのが理想だと思います。

黒猫亭:その理解の妨げになる要因と謂うのが、この記事で述べているような各種のバイアスなんだと謂うことだね。コミュニケーションの大切さを訴える立場の研究者が、社会的な対立構造の解消に向けて手を打たないばかりか、一方の陣営に与し科学者集団の問題点を指摘する。それこそが致命的な問題なんだと謂うことじゃないかな。

どらねこ:自然科学分野では、仮説を立てて実験を繰り返し再現性のあるデータを得ようとしますが、その中にも実験者の各種バイアスが入り込んでくる事が知られてますよね。それらをなるべく排し、正確性の高いデータとなるよう慎重を重ねているわけですが、それは社会科学系であっても同様なんですよね。寧ろ、相互作用を及ぼす因子が非常に多い分野であるからこそ、統制が比較的容易な実験者側のバイアスを出来るだけ排した条件を設定する研究計画が求められると思うんですよ。

みつどん:結論ありきだろこれ?と思うような社会調査*2も見かけますね。

どらねこ:そう謂われないためにも、社会科学分野の研究計画は研究者側の自覚が大切だと思うんですね。これをトランス・サイエンスコミュニケーションの問題として考えるのならば、研究者自身のバイアスが入り込む事の無いように手を尽くす必要があると思うんですよ。基本であり、科学者としての誠実さでもあると思うんですね。

みつどん:完全にバイアスを廃すのは難しいでしょうけどね。研究計画のデザイン面で、できる限り配慮する必要はあるでしょう。

どらねこ:メタ科学の話になりますが、例えば物理学史を考えれば、その物理学史が物理学の知見を書き換えたりの影響を与えることはありませんよね。

黒猫亭:まあ、それはそもそもそう謂うものだよ。

どらねこ:これについて興味深い分析をしている論文*3を読みました。ちょっと引用してみます。

p36より
しかし、科学技術社会論では、これまでの「科学を観察する」ことで明らかにしてきた知見に基づいて、「科学論」を社会に適用させるように見えるのである。このことは、「科学を観察する」というよりかは、新たな実践として当事者としての役割を科学技術社会論は演じているように思われるのである。そうした場合に、科学技術社会論は「科学論」が社会に及ぼした影響を棚上げすることは出来ないということなのである。すなわち、科学技術社会論の問題は「科学論」としての知見が社会に応用される、その場面の観察を引き受けなければならないのである。

みつどん:なるほど、科学技術社会論の研究者も当事者であると述べているのですね。

どらねこ:そう、当事者なのです。トランス・サイエンスコミュニケーションの観察者であり、当事者の一人が、バイアスを排除せずにコミュニケーションの先導するのは研究に対して誠実であるとは謂えないでしょう。第4章最大の問題は、そのような印象を読者に与えるような文章が書かれている事であるとどらねこは指摘したいと思います。

黒猫亭:それは一種の「観測者問題」なんだろうね。本章のレビューでは度々「当事者性」と謂う言葉を遣っているから、「当事者」と謂う言葉の階層性を切り分けないと誤解を招くんだが、この場合は「科学技術と社会の関わりにおいてSTSが積極的に批判や提言を行う立場にある以上、科学技術と社会の間の関係性においてSTSは第三者的な非当事者ではあり得ない」と謂う意味になる。

みつどん:そうですね、まして社会との関係を論ずる学問である以上、その言説それ自体が社会に与えるインパクトについても責任を持たねばならないし、自らの学問の知見が社会に与える影響をもメタ的に包摂して社会の動態を捉えて欲しいところです。

黒猫亭:その点、自然科学と社会科学は違うんだよ。自然科学が扱う物質の領域は人間の言説によって影響を蒙ることはないけれど、社会科学が扱う人間の領域は当然人間の言説によって影響を受ける。研究対象との接触が対象に影響を与え、研究対象と関わることで自らも研究対象に包摂されてしまうと謂うメタ的な問題性が不可避的に発生する。これは社会科学が社会を相手取っている以上は避け得ない性格なのだから、自ずと研究者の姿勢には節度が要求されてくる。自然科学とはまた違った意味での「観測者問題」が重要になってくるはずなんだよね。

どらねこ:おっと、自然科学のタームを不用意に拡張するとポストモダニスト扱いされて散々後ろ指を差された挙げ句カーソルを見間違えたりしますよ(笑)。

みつどん:どらちゃん、それちょっと違う・・・



■おわりに
どらねこ:さて、足かけ5カ月にも亘ってダラダラとやる気あるんだかないんだか無駄口ばかり叩きながらチンタラモタクサと・・・もとい、十分な熟議の下に適切な時間を掛けて続けてきたこの連載も今回を以て終わるわけですが、最後に全体を振り返ったご意見を伺って〆に代えましょうか。

みつどん:えっ、もう終わっちゃうの? ボクはまだと小腹が・・・もとい、片瀬さんの付録はレビューしないんですか?

どらねこ:あれは個別の事例集だからね。みんなでレビューするとなると、個別の事例そのものを論ずるか「書き方論」のようなテクニック論を論ずるかになるから、このレビューの性格とはちょっと合わないと思いモフ。

みつどん:たしかにそうかもしれませんね。一応どらちゃんが過去にどこかで片瀬さんの付録について述べているので、それを参照して戴くこととして、じゃあ今回も僕から。ココでは色々と言ってきましたが、ズラッと居並んだ著者名からイヤがおうにも高まる期待を裏切らない本だったな、と思います。これは平川さんや片瀬さんも含めて。ただ、これも既に触れましたが書名の「もうダマされないための」から連想するような、読むだけで情報リテラシーがぐんぐんついて見る見るTLからデマが一掃!と言うような内容では、まあ当然なかったですね。あくまで「科学講義」であって、その点はそれぞれの専門分野からの解説が重層的に得られしかもコンパクトにまとまっていたので、大変お買い得、だと思います。惜しむらくは、おそらく編者が期待していただろう程には相互補完的な内容にはなっていなかったかな、と。

どらねこ:なるほどね。じゃあクロネコッティさんはどうですか?

黒猫亭:大分レビューに時間を掛けてしまったので、ちょっと実感が喪われているところはあるけれど、この本が刊行されたのは去年の9月で、震災から半年後と謂うタイミングであったと謂うことがまず一つ。そして、第3章までは震災以前のシノドスの講義を纏めたもので、第4章は震災後に原発事故を踏まえて書かれたもの、そう謂う性格の違いがある。その意味で平時の意識で書かれている第3章までは、別に震災後の状況の個別事情を前提としたものではなく、或る意味で科学を巡る議論の普遍的な大基本の部分が解説されている。

どらねこ:そうですね、震災以前に発信された言説を震災後に震災を意識して編集構成した書籍であることで、震災後の混乱状況に対する直接的な言及がない分一種歯がゆさのようなものも感じながら、基本を押さえていって将来を探ると謂う構成だったと思います。

黒猫亭:ところが第4章は、震災後に震災後の混乱状況を直接踏まえて発信されている言説であるにもかかわらず、それ以前の章で述べられている基本認識をスルーしていると謂う問題を感じるわけで、それまでの記事は何だったの?と謂う卓袱台返し的なものを感じる構成になっている。この構成で第4章にSTSが配置される流れ自体は自然なんだけれど、どうやら平川さんの記述は本来のSTSの知見からかなり逸脱して恣意的に結論誘導している部分があるらしい、そこが本書の構成上の最大の問題なんだと思うよ。

みつどん:編集構成上のもくろみが、個別の記事の書き方に問題があって段取りが狂った、というところなんでしょうかね。

黒猫亭:そんなところだと思う。仮にオレが本書の編集者だとしても、構成上の起承転結で考えれば最後に「科学技術社会論」を持ってくるのは筋が通っていると思うもの。菊池さんが科学の方法論を解説し、伊勢田さんが「科学とは何ぞや」を解説し、松永さんが情報発信の実態を解説し、最後に平川さんが科学と社会の関わりを解説する。これだけ見ればどこも構成上間違っているようには見えないよ(笑)。

どらねこ:ところが、最後のくだりでそれまでの3章で解説されてきた事柄の意義が丸ごと否定されている、と。

黒猫亭:だってそうでしょう、それまで述べられてきたのは「科学の方法論はどのようなもので、それは何故信頼に値するのか」「それは人間にとってどんな意味があり、どんな役に立つのか」そして「その信頼に値する科学の情報を如何にして発信するか」と謂う流れの文脈だったのに、最後の最後で「科学の知見なんか役に立たないんだから、科学者が市民の声を聞くべきだ」では、「今までの話を聞いておられましたか?」と謂う話になる。

どらねこ:なるほど、そうすると、われわれの周辺で第4章に対してかなりもにょった感想が多かったのは、個別の記事の書き方に対する違和感がまず一つ原因としてあって、さらにそれ故に書籍全体の構成の観点で全体を貫くロジックが破綻していると謂う事情もあるようですね。では、最後にどらねこもまとめらしい何か前向きにな事を書いてみようと思います。ええと・・・、この本を手に取った当時は今後に対する不安を抱きつつ、何が問題なのだろう、どうすれば上手くいくのだろうと何かを求めるような気持ちでいました。ところが、読み終えて本を閉じたところでいくつものモヤモヤがふくれあがってきたんですね。

みつどん:同様の感想を述べていた方もいましたね。周りでも感想に「違和感」と言う表現が多かったように思います。

どらねこ:ええ。でも、その違和感を追っかけていくことで、今回の記事ができあがりましたし、今まで注視してこなかった諸問題に向き合う事も出来たと思うんですよ。私も含めて皆が当事者意識を持って問題に取り組むことが基本なのだけど、そこに割けるリソースは限られていて時には誤った理解になってしまったり、問題を認識することなく忙しさに流されてしまう事が多いと思います。

みつどん:ボクも食べるのに忙しくて考える時間がとれないのが悩みですね。あ、しのぎという意味ですよ?

どらねこ:それでも「ちょっとまってこれは立ち止まって考えようよ」、と謂う問題も幾つかあると思うんですね。自分が専門としていない分野については、世間一般のイメージや、周囲の人の意見やマスメディアに登場する人物の意見を参考に物事を判断すると思うのですが、それだけで果たして良いのでしょうか、と謂う事ですね。

黒猫亭:時間は有限だからどこまでリソースを割けるのかと謂うのは難しい話ですね。

どらねこ:ですが、今回の震災後に生じた出来事は多くの方にとって、立ち止まって考えたい問題だと思うのですよ。このような重要な問題を考えるにあたり普段採用している理解を進めるための方略が果たして有効でしょうか。ここでシリーズ関連記事でも採り上げた文章をもう一度引用してみます。


小林傳司 トランス・サイエンスの時代-科学技術と社会をつなぐ−NTT出版 2007 p8-9より

社会心理学者の中谷内一也は、人間がある事柄についての「良し」「悪し」を判断する方法に二種類があるといっている。一つは「中心的ルート処理」と呼ばれ、問題対象に関する情報を十分吟味して態度決定するという方法である。彼の挙げる例で言えば、BSEに関して情報を収集し、リスク計算も行い、牛肉を購入するかどうか判断するといったやり方である。いわば研究者の手法である。
他方、「周辺的ルート処理」というやり方もある。これは、中心的ルート処理のような正攻法ではなく、「あの人が言っているから」といった情報源の「信頼性」や「多数の情報が同じことを言っている」といった情報の「量」を手がかりに判断する方法である。
推進派や反対派は当然「中心的ルート処理」をする傾向が強いであろうが、普通の人々はおそらく「周辺的ルート処理」をする傾向が強くなるであろう。中心的ルート処理をするためには、強い動機づけとそれを実行する能力とが必要だからである。
<中略>
日々忙しい生活を送っているときに、本当に関心のある事柄に関しては調べもすれば勉強もするが、そうでなければ、確かに手近な情報で対応しているものである。

どらねこ:引用文で述べられているような中心的ルート処理*4とですが、それを採用して妥当性のある結論にたどり着くためにはある程度の訓練が必要になると思うんです。震災後の様々な不安に対応すべく情報を集めても、その使い方を理解していなければ妥当性の乏しい結論にたどり着いてしまう可能性が高いんですね。

黒猫亭:なるほどね、そう謂う事例はこれまで散々見てきた。

どらねこ:もうダマされないために・・・まず、自身のバイアスに自覚的になる事で、ここで謂う周辺的ルート処理の危険性*5に気がつくこと。そして、様々な情報を集め活用する能力を高めること。つまり中心的ルート処理を活用する場合の勘どころを身につける事が非常に重要であると謂う事ですね。そうした能力を身につけるために必要な事やヒントが本書には書かれて居るんです。そして、最後に、本に書かれている事も疑って掛かる・・・これが読んで知識を得た後のトレーニングになるわけですね。付録に書かれている事例を調べて、もうダマされないための教材としてみたらどうでしょうか?

みつどん:まさしく「もうダマされない為の読書術講義」ですね!

どらねこ:最後まで美味しいところを(笑)。

黒猫亭:ただ、オレは「周辺的ルート処理」自体は否定しないよ。小林教授のおっしゃる通り、大多数の「普通の人々」は、他者の言説の妥当性を量る場合にそう謂う方法論を採用するのだし、それには相応の日常的合理性がある。人間が生きているのは人と人の間の世界なのだから、それはまだまだ人間の主要な物差しであり続ける、それは出発点として考えなければいけない。一方で「周辺的ルート処理」の精度を高める方向性と謂うのも考えていかなければならないと思うよ。

どらねこ:たしかに、現実的に考えるとサイレント・マジョリティに対する情報発信の場面ではそう謂う方向性を考えていく必要もあるでしょうね。われわれが重要な課題として捉えている「見え方論」と謂うのも、その関連のアプローチではあると思います。認知バイアスに対する注意を喚起する一方で、誰もが普通に持っている認知バイアスに足を取られずに信用を獲得し得る発信の方法論を模索する、と謂う意味で。

黒猫亭:そう謂う意味で謂えば、受信する側はそれで好くても、情報を発信して社会に対して積極的に強い提言を行おうとする人々は「周辺的ルート処理」ではいけないわけで、殊に人と人の間の論理が通用しないような領域の問題について、「私の信じている人がこう言っていました」では意見の妥当性を広く主張するに足る根拠とは成り得ない。そこはキチンと弁別しておきたいね。その範疇でなら、どらちゃんの意見に異論はないよ。

みつどん:SNSの普及で受発信の間の垣根が崩れている現状では、難しい課題となりそうですね。かといって、SNSに参加している多くの人々に「情報発信者としての自覚を持て」と呼び掛けることにも低い限界があるでしょう。

どらねこ:課題は残りますね、どうしても。





どらねこ:では、これにて長かった「もうダマ」レビューも一巻の終わりと謂うことで、どんちゃんクロネコッティさん、長い間お付き合い戴いてお疲れ様でした。読者の皆々様方におかれましても、毎回長い長い記事をご高閲戴いた上に丁寧なご感想をたくさん頂戴して、大変ありがとうございます。

みつどん:終わりましたね? 終わったんですね? じゃあここからは無礼講の打ち上げに突入ということで、ボクの胃袋も無礼なくらい全開ですよ! おばちゃ〜ん、ちょっとこっちに座っていっちょ腰据えて相談させてもらおうか〜!

黒猫亭:・・・高血圧で服薬している年寄りには甚だキツい展開なので、オレはこの辺で失礼させて戴くことに・・・あっ、キミたち何をするッ!?

どらねこ:チッチッチッ、逃がしませんよクロネコッティさん!

みつどん:そうです、ボクたちはまだ喋り足りないのです!

黒猫亭:こ、これは何だか物凄く既視感漂う成り行き・・・

どらねこ:さあさあ、堅苦しいレビューも終わったことですし、ここからはそれ以外のいろんなことを腹を割って語り倒そうじゃありませんか。どらねこは、まだまだ話し足りないことが山のように残っているんですよ!

みつどん:おばちゃ〜ん、早く早く〜・・・


そんな感じで、長らく続いた「もうダマ」レビューは、余韻も感慨もへったくれもなくダラダラと馬鹿馬鹿しく終わるのであった。


皆様ご愛読ありがとうございました。

*1:一部とはいうものの、学会に参加した方からの次のような意見もある。対象に影響を及ぼしうるメタ科学の当事者性については業界内で広く議論される事の優先度は非常に高いのでは無いかとどらねこは個人的には思っている。勿論行っているのでしょうがそれがあまり表に現れていないのかも知れない。http://ameblo.jp/studyunion/entry-10928717956.html

*2:例えば明石要一氏によるこの調査などhttp://d.hatena.ne.jp/doramao/20100601/1275353059

*3:川山 竜二 2011 以降の科学社会学的課題 : 科学社会学理論研究に向けての断章的提案 社会学ジャーナル 36号 p.23-41

*4:この二つの過程はElaboration Likelihood Model (精緻化見込みモデルと呼ばれるもので、認知の二重過程モデルと呼ばれる考えのウチの一つです。近年では更に二つの思考過程の相互作用などを取り入れたヒューリスティック−システマティック・モデルも提唱されております

*5:とはいえ、一見合理性を欠く人の認知的仕組みが実は環境への適応の結果に生まれたモノ(進化心理学的観点)であるとの指摘もあります。たとえば感情のままに振る舞うことが、不十分な情報を元に熟慮を重ねた場合よりも却って良い結果を得られる事も日常生活の場面ではしばしば見られます。現代社会ではそれでは通用しない場面が増えてきているのだろうとどらねこは感じております。