もうダマされない為の読書術講義(?):その7


・・・これまでの遣り取り・・・


もうダマされない為の読書術講義(?):その1
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111016/1318728079


もうダマされない為の読書術講義(?):その2
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111023/1319367371


もうダマされない為の読書術講義(?):その3
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111107/1320660719


もうダマされない為の読書術講義(?):その4
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111217/1324125369


もうダマされない為の読書術講義(?):その5
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20120223/1329998568


もうダマされない為の読書術講義(?):その6
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20120224/1330075719


・・・補足エントリ・・・


科学の結論は間違っていたのか?「サウスウッド報告書邦訳」から考える
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20120222/1329997356


トランス・サイエンスの時代を読んでみた(前編)
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20120307/1331133987


トランス・サイエンスの時代を読んでみた(後編)
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20120308/1331203993

どらねこ:早いもので、もうこの連載も7回目ですよ。

みつどん:なんか、今回も終わるような気が全然しないですけどね。

黒猫亭:うん、オレが終わらせねーよ(爆)。とりあえず、どらちゃんのほうから前回のあらましと今回のテーマについて進行してもらいましょうかね。



■欠如モデルと謂う名のラベリング
どらねこ:前回、欠如モデル批判や公共的関与の必要性、市民の立場の強化を訴える狙いから、本章の記述に「市民が科学者の言うことを聞く必要はない、むしろ科学者が市民の声を聞くべきだ」と謂う印象を与えるような文章構成、レトリックが施してあるのでは無いか、と謂うクロネコッティさんのご意見をうかがってきたわけですが、この問題についてどらねこは「複雑な問題に対しわかりやすいラベルを貼るような時に必要な注意を怠れば、容易に起こりうるような問題」ではないかとも感じました。助詞校正*1好きなどらねこは、この章に見られる終助詞、係助詞の扱い方が非常に気になりましたね。

黒猫亭:たしかにそう謂うアスペクトの問題はあると思いますね。前回ちょっと触れた伊勢田哲治さんの欠如モデルを概説するブログエントリも最近完結しましたが、これだけ複雑かつ曖昧な概念を「科学者の上から目線」的なわかりやすいイメージに落とし込んだ結果、「欠如モデル」が「エア御用」レベルの俗化したレッテルとして機能するようになった弊は否めない。

どらねこ:そうやって複雑な概念を単純化したことによって「科学者の欠如モデル型コミュニケーションに対する批判は、それこそ欠如モデルそのままの発想じゃないか」と謂う批判も出てきましたよね。

黒猫亭:そうそう、結局「科学者の側に市民の要望についての情報が欠如しているから、その情報を与えれば解決する」と謂う「裏返しの欠如モデル」にすぎないのではないのか、もっと言うと科学者を権力者に見立て、市民がそれに取って代わると謂う安っぽいイメージに堕してはいないか、と謂う問題が出てきたと思うんですよ。それは単に「科学者は市民の要望に添って情報を出せば好い」と謂うイメージに過ぎないわけで、それではトップダウンボトムアップになっただけなんだから、双方向モデルとは言えないだろうと思いますよ。

みつどん:ボクは前回「基礎的な科学リテラシーに欠ける者が専門家から妥当に情報を引き出すことができるだろうか」と言ったんですけど、単純に主客を転倒させてもしょうがないので。双方向モデルの意義をもっと踏み込んで考えたいですね。

黒猫亭:この章の書き方だと、どうも双方向モデルと謂うのは従来の科学者→市民構図の欠如モデルを裏返しただけ、としか読めないキライがありますね。前回からの流れで言うなら、科学者が市民と対話する必要がある、それはあるとして、科学者が市民の声に耳を傾けるべきだと謂う主張「だけ」が述べられていて、ではそのフェイズでは市民は科学者から何を聞くべきなのか、科学者は市民に何を語るべきなのか、と謂う具体的提言が抜けている。だから結果として「裏返しの欠如モデル」にしか見えないと謂うことなんだと思います。

どらねこ:「欠如モデル」がこれほど便利使いされているのは、身近な事例を通じて実感が人々に共有されている、と謂う背景があるんじゃないかと思うんです。本来はニッチな用語なのに、実感にあわせて定義がしっくりとくるものに拡大され、一部界隈にまたたく間に広まった、そして科学者批判の文脈でも使用されるまでになった、と謂うことなんじゃないかなと。

みつどん:実感、ですか?

どらねこ:例えば、公的な立場からマスに向けて行われる情報提供だと、個々人の見解や個別事情への配慮を完全におり込むのは現実的でないですよね。行政やマスコミが情報を公的に発信する場合、アクションの性質上、個別の事情や個人の見解をフォローするのは限界があるのは当然です。しかし、その情報は科学者の口から語られる場合も多いので情報を受け取る市民の実感は積み重なっていく。でも、それを欠如モデルと呼ぶことに正当性があるのかどうか。公的な見解を述べる場で、市民それぞれの立場や理解に配慮した科学者の個人的見解を語ったとしたらどうでしょうか?

みつどん:あなたの意見なんて聞いてないよ!そんな苦情がくるかもしれないですね。

黒猫亭:なるほどね。それを欠如モデルと呼ぶことは、オレがいつも言っているような「何でも入る便利な容れ物」式の用法に思えますね。それは要するにリスコミの技術論であって、規範論でも何でもない問題なんですよね。

どらねこ:ええ。以前ツイッター菊池誠さんがリスク比較の必要を訴えた時も、行政側のリスコミ指針を引き合いに出して彼の科学者としての姿勢を批判する意見なんかが結構ありましたが、あの指針は「迷惑を掛けた当事者が『これとこれを比較してみればそんなに危険じゃ無いでしょ』と訴えれば、普通の人は怒り出す」と謂う当たり前の事を述べているだけで、そもそも科学者の規範論ではないんですよね。

黒猫亭:あれは馬鹿げた意見だったねぇ。たとえば原発事故に対して当事者的責任を負う国や東電が「いや、客観的にこれとこれを比べてみるとホントは安全なんですよ」とか訴えたら、それは普通の人は怒るに決まっているよ(笑)。

どらねこ:当事者的立場で述べてよい事と悪い事があると思うんですよねぇ。

黒猫亭:当事者から「リスクを過大に見積もるのではなく、客観的に妥当に認識してください」と主張すると謂うのは、要するに当事者側からの「公平に扱ってくれ」と謂う権利の主張でもあるんですよね。迷惑掛けている当事者が自分の権利を真っ先に要求したら誰だって怒るに決まっている。そして、当事者から不特定多数へのリスコミで、相手が怒るに決まっているようなことを言うのは好ましくない、と謂うのは物凄く普通の理屈ですよ。それを、直接責任を負う当事者でも何でもない科学者一般に敷衍して、剰え科学者としての姿勢みたいなものを批判すると謂うのは頓珍漢もいいところ。

どらねこ:科学者一般はべつだん原発事故の直接責任を負う立場でもないし、当事者的立場でリスコミを行うワケでもありませんよね。本来は専門知を持つ価値中立的な立場から客観的な意見を述べることが求められているのですから、妥当なリスク比較を呼びかけると謂うのは要請にこたえているに過ぎないですよ。

黒猫亭:科学者集団一般を「科学技術を推進してきた側」と雑駁に括って従来の原子力行政の共犯みたいに扱う意見もありましたけどね、そう謂う迂遠なロジックで科学者全体を問責するなら、じゃあ従来の政府の原子力行政に無関心だった国民に責任はないのか、みたいな一億総懺悔式の議論になる。そう謂う大括りなレイヤーで「当事者性」を切り出すなら、「国民全体がみんな当事者だ」と謂うレベルの話になるけど、そう謂う話じゃないですよね。

どらねこ:レイヤーの階層が上がるに従って、観念的で曖昧な話になってきますからね。そう謂う観点の議論ももちろん必要でしょうけれど、今論じているリスコミの「当事者性」とは関係ない階層の問題でしょう。

みつどん:その辺については、昨年平川さんと菊池さんの間で起こったリスク比較を巡る議論を思い出しますね。あれは何度読んでもなぜ平川さんがリスク比較をあれほど忌避するのかサッパリわかりませんでしたが、そこにズレがあったのかもしれませんね。

黒猫亭:「細かいことはすっ飛ばして、とにかくリスク比較はやっちゃダメ」としか読めなかったなぁ(笑)。今言った通り、菊池さんや平川さんだってリスク比較を奨めることには問題なんか何もない筈なんだけどねぇ。

みつどん:とにかく噛み合ってなかったですね。

黒猫亭:さて、ここまで考えていくと、われわれの周辺で平川さんの章の評価が必ずしも芳しくない理由も自ずと見えてくるんじゃないかな。要するに、われわれがこの本を手に取った時点では、原発事故後の混乱状況に対してSTSが何か有力な手札を持っているのではないかと期待していたわけだけれど、実際に読んでみたら「科学者は口を出すな」みたいなことしか書いてなくて、役に立つことが何も書いてなかった、そこに強い落胆を感じたと謂うことは一つあるでしょう。

どらねこ:むしろ、原発事故後の分断状況を後押しするかのような印象です。その割にはトランス・サイエンスコミュニケーションがこの状況を打開する切り札であるかのように臭わされていて、でもそれは具体的に誰が何をどうすることなのかは書いていない。「とにかく市民が議論に参加することなんですよ」と謂う以上のことは書いていないですよね?

黒猫亭:ぶっちゃけ、STSは市民運動に不都合なことを言う科学者を黙らせるための喧嘩の道具なのか、とこれくらいは言いたくなる。でも、他の研究者にいろいろ話を聞いてみると、どうもSTSはここで語られているものとは大分違うもののようだ、と。

どらねこ:なにか「市民vs科学者」のような、本来ありもしない対立構図のようなものが演出されているような気がしてならないんですよ。どらねこは、今のように困った事態に陥っている人がたくさんいる時に「あのときあんな風にしなかったからいけなかったのだ!これは○○の問題だ!」と指摘する事に違和感を持つのですね。何の役に立つの? とりあえず一緒にコトにあたる時期じゃないの? と強く思うんですよ。レッテル貼りは集団間の闘争をあおる材料となりやすいですから、本来は協働出来る間柄をも分断すると思うんですね。

みつどん:今は...今でもと言うべきか、くだらない敵対や分断を演出しているような余裕はないはずですね。



■今この状況で何を求められる?
どらねこ:それと、どうもですね、ここでは科学コミュニケーションとリスクコミュニケーションが意図的に混同されているんじゃないかと謂う気がして仕方がないんですよ。

黒猫亭:なるほどね。そう謂うレベルでのトリックもあるのかもしれない。ちょっと以前引用したJ_Steman氏*2の図を元に改めて現状を考えてみましょうか。まず、原子力発電所建屋の水素爆発直後から電源喪失が明らかになった後のような危機的状況は、この図で謂えば「3」に当たるわけです。

どらねこ:そこは間違いのないところですね。危機の規模も範囲も明確になっていなかった以上、日本中の人々がクライシス状況にあったと言えるでしょう。

黒猫亭:ところが、時間が経過するに連れて「たしかに原子力発電所は危険な状態ではあるものの、どうやら日本全体が深刻な危機に陥ったわけではなさそうだぞ」と気が附く人がだんだん出てくる。そして、この本が発売された頃には状況も整理され、被害の実態もかなり明らかになっていたわけですね。しかし、依然として福島や近隣各県は予断を許さない状態にあるわけです。

どらねこ:いつ巨大な余震がきてもおかしくありませんし、対応一つ誤れば再度水素爆発もあり得る状況ですものね。

みつどん:そうすると、現時点でも「3」の状況と認識している人もいれば「2」だと思っている人もいる、と。

どらねこ:ある人はすでに平時の「1」と認識しているのに、その隣の人はいまだ「3」の状況だと思っているかもしれない。そんな感じでいろいろな認識の人が混在している状況だと考えられますね。

みつどん:現状をいまだ非常時だと認識している人が、「放射性物質の科学はこんな感じです、正しく理解してつきあっていきましょう」みたいに言われたら、腹を立てることはあるかもしれませんね。

どらねこ:では、この本を手に取っている人ってどのあたりにいると謂う認識なんでしょう? 平時だと考えている人であれば、リスコミはどうあるべきか、トランスサイエンス・コミュニケーションはどうあるべきか、など冷静に考えることができると思うのですけど、例えば「2」とか「3」とかの状況と認識していたら、冷静に受け止められないと思うんですよね。

黒猫亭:現実的な意味で言えば、原発周辺地域とその他の地域で現状認識は違うだろうし、別の観点で言えば、たとえば汚染の程度で言えば現実的には大して危機的な状況にはない東京や神奈川から沖縄に疎開したような人々も、その主観的現実としてはクライシス状況にあるわけですね。これを一概に「放射脳」と揶揄して切り捨てても仕方がないわけで、NPOなどのチャネルを通じて病的な心理状態にケアが必要な状況ではあるでしょう。

どらねこ:そう謂う人々に対してこの章のような意見を提示したら政府憎しに傾きかねないわけで、そのような認識の人が多い状況で俎上に載せるような問題じゃなかったと思うんですよ。それ以前に、そもそも実は必要なのはトランスサイエンス・コミュニケーションではなく、クライシス・コミュニケーションだったんではないでしょうか? 言ってみればリスク・コミュニケーションの問題だったわけですよね。

みつどん:「ただちに健康に影響を与えないレベル」というフレーズは散々批判されていますし、クライシス・コミュニケーションとしては問題かもしれませんが、サイエンス・コミュニケーションとしてはアリですよね。そこは受け手が置かれている個々の状況次第で、それが不特定多数人に届くメディアで語られると「妥当ではない」と反発を招いたりするのだろうと思います。

どらねこ:対個人ではなく集団として対応するとき、結果的に対応が欠如モデル的になることはあり得ますよね。それで例えば科コミとして知識提供重視の情報交換会みたいなものが行われたとして、その中にリスコミを求める人がある程度の割合で混じっていたとすればどうしたって不満は残るでしょう。サイエンスカフェはリスコミ現場では無いし、それによその国で行われている形式が日本で望ましいとも限らない。リスコミを行う主体はだれ?政府?

黒猫亭:そもそもこの章では、サイエンス・コミュニケーションとトランスサイエンス・コミュニケーションしか対置されていないので、リスク・コミュニケーションとかクライシス・コミュニケーションなんて話は全然出ていないですからね。さっきの図で見ると、トランスサイエンス・コミュニケーションの出番は、クライシス状況が一段落してから今後どうするのかを市民を交えて冷静に議論する段階のはずなのだけど、そこの説明がすっぽり抜け落ちている。

どらねこ:そこをナチュラルにスルーしているところが、本章に対して違和を感じる理由の一つでもありますね。「あれ、リスコミの話はどうなったの?」みたいな。前回のエントリに関しては「著者の内心を憶測するのは不毛では」という意見もあったようですが、本質的な論点はむしろそう謂う「見え方論」の方なんですよね。

黒猫亭:そうですね、オレは「意図的か非意図的かはどうでも好い」と言いつつも「印象を操作する技術論」と言っているし、オレ個人の心証としては意識的にやっているのだろうとは思うけれど、基本的にはテクストを分析した客観的な「見え方論」の問題です。

どらねこ:内心の意図はどうあれ、そう謂う印象を与えるテクストになっている、そのことが問題の核心部分ですよね。マスの印象形成はそうやって為されるわけで、一旦そのようにして印象が形成されてしまうとそれなりに社会に影響を与えます。少なくともネット界隈では分断が生まれる切っ掛けとなったり、立場を違えた方同士の議論に燃料として使われていたりする現実があるわけです。

黒猫亭:ズバリ言ってしまえば、片瀬久美子さんの付録を除けば唯一原発事故後の状況を踏まえて書かれたこの章は、そのタイミングで発信するのに相応しい内容のコミュニケーションであったのかどうか、そこが問われているんだと思いますよ。オレは適切だったとは思わない。「間違ったことは言っていないが、誤った印象を与える」テクストは商売柄食傷するほど見てきているけれど、これもその一つだったと結論附けています。オレは畑を問うなら間違いなく「人文科学系の人間」なのでね、そう謂うトリックには敏感ですよ(笑)。

みつどん:あっ、それを言うならボクだって生粋の人文科学系です!

どらねこ:なにをっ!!どらねこだってもともとは社会科学系のモフ猫だしっ・・・って誰に向かってしゃべってるのコレ(笑)。それはさておき、本文についての論評は概ねその辺りの結論になりますかね。では、それを踏まえて、次回はもう少し議論の裾野を広げてみましょう。

みつどん:その前に追加注文いいですか? ボク、なぜだか無性に天ぷらが食べたくて食べたくて仕方がないんですよ。おばちゃ〜ん、天ぷら盛り合わせ三人前の名目でその実は一人前お願いしま〜す。

黒猫亭:・・・よーし、オレも久しぶりに肉天喰っちゃおうかなぁ〜。

どらねこ:優しい声もいいけど芋も良いね。へぃ芋天一丁!

みつどん:なぜだろう、何だかこの連載を続けていると、ホントに天ぷら*3が食べたくて食べたくて仕方がなくなってきますね〜。

黒猫亭:あっ、しまった、肉天の衣が剥げて中身が丸裸になったら、半分以上タマネギの塊だったでわないか! こう謂うのを古来「羊頭狗肉」と呼ぶのだな。

みつどん:タマネギのくせに肉のフリをするなんて許せないですね〜、トンカツのフリをするコロッケの次くらいに許せないです! ああっ、そんなことを言っているボクも、天ぷら盛り合わせの半分がタマネギの掻き揚げだぁっ!

どらねこ:イモ天の中身がイモだったどらねこは勝ち組ですね(笑)。いやぁ、ホクホクして美味しいです・・・ん?サツマイモが「ホクホク」って・・・?

黒猫亭:・・・どらちゃん、よく見てご覧なさい、イモはイモでもジャガイモの天ぷらだよそれ。それが証拠に附け合わせに塩辛が附いてるじゃないか。

どらねこ:じゃがーがだいすきじゃがーいもってか!どらねこ豹変*4す。

みつどん:あ、いらないならボクが貰っちゃいますよ?

どらねこ:えっ、既に口の中に入ってるし。かえせー、どらのいもかえせー!

なぜか全員わしわし天ぷらに囓りつきつつ次回に続く。

*1:色々と好きらしい

*2:早稲田大学政治経済学術院ジャーナリズムコース准教授の田中幹人氏。またもや図を使用させて頂きます。科学報道のあり方等について述べているこの記事などたいへん参考になります。→http://wired.jp/2011/12/30/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%81%8C%E3%82%82%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%99%E3%80%81%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%A0%B1%E9%81%93%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%8C%96/

*3:[1]魚・貝・肉・野菜などに、小麦粉を水で溶いたころもをつけて油で揚げた料理。江戸中期以降に普及した。[2]上方で薩摩揚げのこと。[3]見掛けと中身が異なるもの。めっきしたものやにせものなど。(大辞林

*4:ジャガーと豹は別物です