だれがとくをするのだろう

今回もいつものように思ったことをダラダラ書いてみます。ダラダラと長ったらしいです。


■私と予防接種
どらねこは注射が苦手です。どうして苦手かというと、それは痛いからです。小さい頃から今に至るまで苦手にしているのですが、注射に対する認識は色々と変化をしております。
小さい頃は、怖いのを我慢すれば周りの大人が褒めてくれるので「大丈夫だぜ!」みたいな顔をしたような記憶があります。次に学校で行われる定期の予防接種などはクラスの子達にバカにされたくありませんから「屁でも無い」様子を装っていたように思います。それでも本心は注射が苦手ですから、どうにか避けたいものだなぁ、なんて思って居たりしました。
そんな折、いくつかの予防接種が定期接種から任意接種へとかわると謂う出来事がありました。有害事象の報告があることと、その割に効果が定かでは無いと謂う指摘を受けての対応であると聞きました。予防接種が苦手などらねこがこの事を利用しない手はありません。「怖いから・嫌だから、ではなく意味が無いことはしたくないんだよ」と謂う正当化の材料にうってつけだったのですね。こうして、青年期のどらねこはこの話を都合良く解釈し、20代後半になるまで予防接種を日常から遠ざける生活を続けました。


■嫌いは強力
今にして思えば、そんな理由で・・・なんて思ってしまうのですが、嫌いなモノに対してリソースは割きたくないと謂う子供としてはある意味当然のふるまいだったのかなとも思ってますが、一度そうだと思ってしまえば気がつく機会はなかなか訪れないと謂う怖さも今にして感じますね。嫌いなモノには自分から近づきたくないのは多くの人が同じなのでは無いでしょうか。それと、「任意接種だからやりたくない」と謂うワガママをあっさり認めてくれた親のスタンスなども影響していたのでしょう。親の子供への影響って大きいですものね。そんなどらねこですが、親になった事で久しぶりに予防接種と向き合う機会を持つことができました。こうした理由が無ければ今でも同じような認識のままだったかも知れませんので、これは子供のおかげですね。


■ちょっと考えてみる
予防接種を嫌う方はどらねこの身の回りに大勢おります。これはどらねこみたいに痛いからと謂うチンケな理由じゃなくて「大切な子供に害を与えるから」とか「効果なんて無いから」などなどそんな理由で嫌っているようです。
そのような理由となった過去の問題点ですが、調べてみると現在は解決されていたり、そもそもが誤解によるものであるケースが多い事がわかります。内容的には調べればわかるような話だと思うのですが、現在までも多くの誤解が残ったままだと謂うのはやっぱり「嫌い」が理解を遠ざけてしまっているのかなぁ、なんてどらねこは思いました。
では、なんでここまで嫌われてしまったのでしょうか?やっぱり痛いからなのでしょうか?


■歴史をながめてみる
予防接種で防ぐ事が可能な病気で息子が入院をしたのを切っ掛けとしてさらに興味をもったどらねこは教科書を引っ張り出したり、本で調べたりと予防接種行政がどのように行われてきたのかを知っておこうと思いました。
予防接種法は1948年に制定され、罰則付き強制での集団接種が行われる事になりました。これは感染症等の流行で多くの命が失われる状況があったことと、感染症の拡大を助長する不衛生な環境を改善する上下水道の整備などによる衛生状態の向上、抵抗力を高める栄養状態の向上が簡単には達成できないため、ワクチンの集団接種で免疫をつける事が効果的と謂う判断があったからでしょう。
戦後間もなくの緊急性が求められる状況下ではワクチンの供給体制も十分に整っておらず、安定した品質を保つことが難しかったため毒性を除去しきれなかった事による有害事例や。ワクチンの有効性が確認される前に投与が行われ、後に効果が無いと判断された事例が存在します。それでも、社会全体のメリットを考えれば投与を進める事に妥当性のある状況であったと考える事ができます。
しかしながら、世の中が安定し、公衆衛生が向上し栄養状態が良くなると感染症の危険性に対する緊急性は薄れ、一般の人はメリットを直接的に感じなくなる状況が訪れます。そうなるとそれまでのやり方の乱暴さが目に余るようになるはずです。
また、強制接種の状況では、有害事象の存在そのものを認めない傾向があったようです。例えば集団で一律に接種した後に具合が悪くなる人がでますが、予防接種投与後の状態異常は何か別の原因不明の要因(特異体質とか)によるものと片付けられるような状況があったようです。そうして実際にあった被害は無かったかのように扱われ、言い逃れできないような事例が起こった場合*1を別として、結果体に望ましくない後遺症が残ったとしても補償金制度*2が無いため泣き寝入りの状況であったようです。
当初はしなければ大変な事になる予防接種をすすめる為にやむを得ずにとった対策も状況が変われば改める必要が生じるのは当然のことでしょう。しかしながら、今までは無かった事として扱っていた有害事象を急に認めると謂うのも難しい事なのでは無いでしょうか?
昨日まで「安全です」と何度問われても同じ答えをしていた人がある日突然「健康を害する可能性があります」なんて述べるようになったらどう思いますか?昨日までのオマエは何だったんだ?と感情を爆発させる人がいても不思議はありません。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いなんてコトバもありますので、行政憎けりゃ予防接種まで・・・なんて事もあったのかもしれません。
こうして国に責任が求められる風潮が次第に強まり、有害事象に対する公的な責任を求められるような状況ができてきたようです。


■ワクチン禍
こうした風潮が形成される中でマスメディアの果たした役割は比較的大きいのではないかと思います。1960年代初頭のポリオ生ワクチン、1970年頃の種痘による有害事象への国に補償を求める動きの加速、MMRワクチン後の無菌性髄膜炎の問題などに対し、マスメディアの多くは国の責任を強く追及する姿勢を示したようです。
こうした予防接種行政に対する不信や非難などを多くの人が国にぶつけるようになれば、従来からの予防接種のあり方を大きく転換させる圧力となります。
そのような状況であっても、病気の大流行によって多くの命が失われてしまうのを傍観しろと国に求めるわけでもありません。「するべきでない予防接種はしない」かつ「する必要のある予防対策は万全に行え」と謂う要求をつきつける状況*3ができあがるのでしょう。
国に対する責任と謂う話になりますと、また、日本には無過失補償・免責制度が無いため、被害者の補償は裁判所に求められるケースが多くならざるを得ません。こうした救済措置が十分でない状況に於いて被害者を補償するため、裁判所は国や予防接種の実施者にたいし過失責任を認定する傾向が強いとされますが、国だけでなく医師にも過失が無かったのかどうかが問われることもあります。国賠法1条・過失−予防接種禁忌者該当の推定/小樽市事件*4では、医師にあらかじめ禁忌者を識別する予診を行う義務がある事を求めております。医師はあらゆる可能性を疑い、予防接種の対象者の健康被害を未然に防ぐことが求められるというのです。これって現実的なのでしょうか?


■無理を求めれば
こうした無理の大きい要求を求める力が強くなると、求められた側はどのような対応をするでしょうか?責任感が非常に強ければ必死に応えようと努力することでしょう。無理が通れば道理が引っ込むと謂いますが、無理を突きつけられれば、無理をしてぼろぼろになる人もいれば、逃げ出すと謂う選択をするのもまた人間です。
予防接種であれば、責任を求められる定期接種をすくなくし、本人もしくは保護者の同意の上に任意の接種が増えたのは当然のながれかもしれません。
これは見方を変えると国民に予防接種を受けるか否かと謂う圧力のない選択の自由が手に入ったと考える事も出来ます。自由ってなんとなく良い響きがありますよね。これは喜ばしいことなのでしょうか。


■自己責任
今まで定期接種であったものが任意接種に変わる事で、予防接種に対し不信のある方やなんとなく嫌いな方が接種を行う割合は大きく下がることでしょう。
接種を行う事で起こるかも知れない副反応等の有害事象は確かに回避できることでしょう。しかしながら、接種を行わない事で危険な病気の感染確率を高めてしまう事も忘れてはいけません。それだけでなく、集団としての免疫を考えれば、予防接種をおこなう人が減ることで、病気の流行が大きくなる可能性を高めてしまいます。現在推奨されている予防接種の多くは、個人の免疫や集団での免疫を高めていると推察されるデータが得られているものばかりですが、予防接種を怖いと思って居る方や嫌いな方の目にはなかなか届かないようです。それにより、メリットとデメリットを見極める為の天秤に不適当なおもりが掛かっている可能性もあるように思います。
また、予防接種による健康被害が起こったときも「定期接種」と「任意接種」では補償の額が大きく違います。
*5任意接種での補償される額は定期接種及び臨時接種に比べると少ないモノとなっております。集団の免疫にも貢献する予防接種を積極的に受けようと考えている方達に十分な補償がなされないようなシステムを果たして有り難がって良いのでしょうか?どらねこはそれじゃあイケナイと思うんですよね。
自由な選択と謂えば聞こえは良いのですが、選択を行うために必要な情報が行き渡っているのか?情報を咀嚼し理解をすすめる事を阻害する大きなノイズがあるのではないか?などなど、そのような課題が解決されてからの話だと思うのです。
自分たちの安全を求める気持ちは分かりますが、無理を要求することで誰も得をしない状況ができあがるのではないでしょうか?このような構造は予防接種の件に限らず色々とあると思います。


■選んだ結果
こうした話を眺めているうちに、今までこのブログで考えてきた代替療法*6や英国の独立助産師の問題にも似たような構図があるのではないかと思うようになりました。
そこでは患者の選択をとても大事にします。これは良い面もありますが、同時に選択は患者個人の責任で為されたと謂う事を強く強調します。過去のエントリでも言及した英国の独立助産師を採り上げた記事*7より引用します。

p6より
帝王切開後の経窒分娩(VBAC)のリスクを説明し、瘢痕破裂の可能性とそれに関する資料を渡す。それによって家庭水中出産についても情報にもとづく選択(informed choice)をする。ある程度のリスクはあるが自分の家にいること、自分たちのコントロールの元にあるという利点と家庭出産のほうが正常出産を達成する可能性が高いと夫婦は理解した。

選択は自己責任により為された事が強調されております。これは独立助産師には加入できる職域保険が無いため、過失事故があれば助産師個人が賠償責任を負うため、それを回避するためだとどらねこには見えました。
基本的に代替療法は選ぶ側の自己責任とされております。いくら効果があるようにほのめかす文言が並んでいても、実際には効果を謳ってはいけないことになっているはずですので、効果を謳っていない説明を聞いた利用者がそれでもその選択をしたと謂う事が建前になるはずだからです。はじめから自己責任である事を理解し、何かがあってもそれは甘んじて受け入れると謂う姿勢を求められるのです。これを自己責任であるから当たり前と考えてしまって良いのでしょうか?本当に十分な説明が為されたのでしょうか?色々気になるのです。


■予防接種を忌避して
なんらかの理由で予防接種を嫌う人がいる。それは居てもおかしくないと思います。そうして、予防接種を嫌う人をターゲットにした代替療法の勧誘があります。これらは大抵の場合は根拠の無い不安を煽る事例と一緒になされます。十分な情報を得られない(理解に至らない)ままに、マスメディアの予防接種行政を悪者視する論調に乗ってしまいすべてが問題であると謂う理解をした方がたどり着いた先が、すべて自己責任であることを求められる根拠の無い代替療法であると謂うのならばそれはとても哀しいことではないかなぁとどらねこは思うのです。
誰かを悪者に仕立て上げ、糾弾された人を選択の余地のない場所に追い込む。追い込まれた人はやむを得ずジレンマに目をつぶってしまったり、問題からの回避を仕方なく行ってしまう・・・。そうして世間に自己責任ばかりが溢れてしまうのかも知れませんね。(ちょっと強引な論展開ですが)



■進歩のない世界
隠蔽体質を持つ組織や自己責任であることを要請する代替療法などでは、問題自体が存在しないかのごとく振る舞うため、問題が生じても問題を解決しようと謂う必要性があまり生じないでしょう。架空の事例で考えてみます。

例えば、ぜんそくステロイドは有害であると説く代替療法があるとします。その代替療法を信用しているかたが療法士から自分の子供の健康を守るためにステロイドに変わる力がある「モフモフ玉」をさわれば良いと教えられ指示通りにけんめいに続けますが、それでも病状は良くなりません。ぜんそくは自然に寛解するケースもあるでしょうが、中には深刻な事態を引き起こすケースもあるでしょう。具合が悪いのを心配し、親は療法士に相談すると「好転反応」ですからそのまま続けて下さいなどと説明がなされます。

実際の代替療法*8でも似たような構図で効果の無い施術に対する便利なコトバとして「好転反応」が登場する事があります。挙げ句の果てに、哀しい結末を迎えたとしても、それは本人の前世からの因果であるからとか、生まれる前に親が予防接種をした事が原因であるなど、施術自体に問題があることを認めない構造になっていたりするのです。
このような問題自体を認めないものや隠蔽体質は、問題と向き合い解決策を探ることでより良いものを目指そうとする力が働かなくなりがちです。根拠の無い代替療法には昔から進歩が見られないものが多いのはこのためだろうとどらねこは思っております。


■おわりに
今回のエントリは謂いたいことが山ほどあって収拾がつかなくなってしまい申し訳ありません。それでも謂いたいことのかけらでも伝われば嬉しいなと思います。

一つは、「嫌い」には色々ともっともらしい理由を付けたくなっちゃうこと。
一つは、目的を常に忘れないことが大切だということ。
一つは、追求するのは責任ではなくて問題点とその解決法だということ。
一つは、相手に無理や過大な責任を求めちゃイケナイということ。
一つは、選択の自由と抱き合わせの過剰な自己責任にちゅういということ。


これらの問題を今後も考えていこうと思います。このエントリが読んで下さった皆様のなんらかのヒントになったのならば幸いです。

*1:京都・島根ジフテリア予防接種禍事件などを思い浮かべますが

*2:その後裁判などでは国による賠償が適当と認められれるような、無過失補償的な考えを採用した判例が積み重なっているようだが、制度とはなり得ていない。((http://www.jmari.med.or.jp/research/summ_hb.php?no=126日医総研 Annual Report 2005 無過失補償等を巡る判例動向に関する調査研究•••尾崎 孝良

*3:手塚洋輔氏の述べるところの過誤回避のディレンマ

*4:http://www.hiraoka.rose.ne.jp/C/910419S2b.htm

*5:救済制度についてこちらに記載がありますhttp://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001n6b1-att/2r9852000001n8b1.pdf

*6:健康被害をもたらしたり、もたらす事が予想されるようなもの、或いは根拠が明らかに無いもの

*7:助産師教育 NEWS LETTER No.57 2007. 11. 25 イギリスの独立助産師活動 英国 Independent Midwives Association Caroline Baddily 監訳:天使大学 学長 近藤潤子

*8:一部であると思いたいですが