今日は雑談

単なる雑談です。
■批判・非難に思うこと
子供行う各種の予防接種は大切である。決められた順番に沿いつつも、期待される効果が高いものについて積極的に実施していきたいと思ってる。でも、全部が全部必要かと問われれば、個人的にはそんなこと無いと思ってる。そして、その優先順位もヒトそれぞれだと思っている。
さて、どらねこは予防接種について、過剰に害を訴えたり、する必要は無いと謂うような言説に対し、批判的な発言を行ってきたように思う。でも、何が何でも予防接種に完全賛成と謂われれば、別にそんなことは無い。費用対効果に疑問があるものについては、優先順位など考え直す余地もあるだろうし、副反応の激しいものであれば場合によっては保留する事も必要だろう。個々人の体質によっては受けない方が良い場合だってあるだろうし、そこまででは無くてもちょっと心配なグレーゾーンの方だっているだろう。それらを十把一絡げにして、予防接種は大切だから実施しなさい、とか、国は大丈夫だと謂っている、決まりだから行え、みたいなのは『予防接種一律反対』などと同様な危険を孕んでいるように思う。そんな極端で無いにしても、個々人への配慮を欠く押しつけは批判の対象になるとは思ってる。
どうしても声の届かないヒトがいて、予防接種の実施率が低下してしまう・・・、そう謂う事もあるだろう。じゃあ、できる事は何か?自分にできる事は少ないけれど、ちょっとした勘違いやデマを信用してしまい、なんとなく忌避している方に、そんな事無いよ、誤解だよと情報を提供するぐらいは可能かも知れない。そう思って、少しではあるが情報発信しているつもり。
どうやっても理解をしない、出来ない層はあるだろう。でも、予防接種の場合は集団内に一定以上免疫をもったヒトの割合が増えれば、大流行は避けられる事も知られてる。そうする事でなんらかの理由で実施してないヒトもある程度は守られる事になるんだよね。
ニセ科学を批判したり非難する事もそうだけど、全員に対し合理的な理由で問題点に気がついてもらう事を目的に行っているワケじゃないんだよね。そして、理解できないヒトは『悪』だ!と責める積もりもなんにも無いわけだ。分かるヒトには少しでも分かってもらいたい、それで予防効果が発揮されるわけだ。集金が目的のニセ科学なら、ひっかかるヒトが大勢必要なわけで、見込みがなければ活動も縮小するだろうから。
■反発・批判する気持ち
ニセ科学的な説明を鵜呑みにしている方に『それ根拠がないよ』、『誤った理解だよ』と説明しても理解は得られないことは多い。それはしょうがないと思う。でも、目に見えるところでどうみても健康に影響を与えそうな事が、明らかに善意から行われそうな場合にはどうだろう。自分にはどうにもできなくても、しょうがない・・・とは思えなかったりする。そんな時には自分の感情がはじけそうになる事もあって、文句の一つも謂ってしまうことがあった。でも、わかんないヒトを責めるような言説にはやはり反発はある。どらねこみたいに心の弱い批判(非難)者は偶にそんな怒りをぶつけたくなる事はあるんじゃないかな。だからそんな自分を、自分の中にあるものを批判する。前に、はてなブックマークコメントで、ついつい悪態をついてしまった事があるんだけど、その後にそれに追従するようなコメントが重なったことがあった。連鎖を呼ぶようなコメントを書いた自分は批判されてもしょうがないと思った。他人の事を謂えないようなどらねこなのだけれど、そんな連鎖を呼びそうな悪態については、やっぱりやめた方が良いし、やめて欲しいと勝手に思ってる。
だって、『こんな問題をなんでコイツ理解できないの?と謂う態度』はやっぱり、『いじめられるのはいじめられる側に問題があるから』それなのになんで、『自分を変えるなりしないの?』と、似たような構図に見えるから・・・。無駄に人を傷つけて何が生まれるって謂うんだろうね?それこそ、虚しい自己満足しか得られないよね。同じような人を生み出さないよう、そんな構図をつくり出した状況を変えるように努める方がよっぽど前向きだ。そう謂い聞かせながら、ついつい出てきそうな悪態を飲み込んでいる。元々が心の優しいネコじゃあないからしょうがない。
■優先順位なんてわからない
「おい、どらねこ!マクロビばかり批判してないで、この問題にも取り組んだ方が良いぞ、マクロビより遥かに危険だ!」
そんな風に思う方がいらっしゃるかも知れない。でも、そんな気持ちはそれなりに分かるんだよね。ホメオパシーばかり批判していないで、マクロビにも注目してよ、なんて思ってしまったことがあるからだ。思うだけでなく、ホメオパシーにかこつけて、マクロビも一緒に問題点を認識しましょうよ、と謂うエントリを書いたことまである。自分が問題と考えている事を多くの方に同じように共有してもらいたいと謂うのは当然だろう。で自分がどうしてマクロビを批判・非難するようになったかを考えれば、そんな要求の傲慢さがジクジクとしみてくる。自分の専門分野である『食べ物と健康』に関わる誤った言説だから強く反発したわけだからね。そんな下地が無い人に同じような意識を求めてもダメでしょう。そんなわけで、まぁ、ちょこっとはマクロビのオカシサもおぼえといてよ、ぐらいの気持ちでいるように努めるようにしているけど、やっぱり押しつけがましさは抜けきらないかな。
さて、そうやって色々とぐじぐじ考えるウチに、逆にマクロビに拘らないニセ科学的なもの全般に共通する構造がなんとなく見えてくるような気がしてくるんですね。それは人間の基本仕様とも思えるような呪術的思考によりそうものであったり、子供の事をおもう親の気持ちを利用したものであったり、リスクの見積り方の問題であったり・・・。
そうした共通項に目を向けると、特定のニセ科学(所謂)を批判と謂うよりも、一つの例題を元に、その他同じようなニセ科学的なモノに対する注意点を提示できる事に気がついてくる。そう謂う共通点を挙げていき、同じような構造のニセ科学の事例にはこんなものもありますよ、と紹介すれば良いわけだ。各論はそれぞれがやればいいし、そこから見えてきた共有できる部分は共有すればいい。そうやって見つけてきた知見をなるべく多くの方が利用できるようにする事、それが大切なんじゃないかな、と謂うのがどらねこの今の考え。
例えばね、原子力発電なんか、安全安全いってきた挙げ句、このザマだ。もっと大勢が優先して批判することが大事・・・、などと謂う主張が仮にあったとする。でも、それで上手くいくのかしら、なんて思っちゃう。特定の問題に特化した批判の手法は汎用性はあまりないように思うんだよね。一度発生すれば多大な影響をもたらし得るシステムを許容してしまったのは問題がやはりあったのだろうけど、それが原子力だから、じゃなくて、大きな影響をもたらし得るモノがどのようにして、安全であるかのように認識させられてきたのか、の方が問題だと思うからね。
個別の問題点を指摘するより、情報の取捨選択、リスクの見積りなど、そういった判断能力的なものを身につける事の方が大切なんじゃないかな、と思ってる。現在、ニセ科学批判(とされる)活動で活躍されている方々はそのような点をしっかりと提示されているようにどらねこには見えるわけで、批判される余地はその部分には無いんじゃないかな。大きく見える問題もまた、個々の小さな問題の積み重ねであるわけだし、積み方をかえればまた別の大きな問題は容易に生まれてくるわけだ。
■とどかない人にも恩恵を
誤った理解を誤っていると理解してくれない人、指摘そのものに接する機会が持てない人、信用してしまうような素地を持っている人、それらの人に届く言葉は無いのかも知れない。だけど、予防接種と同じように、理解してくれる人の割合を増やすことで、新たに嵌ってしまう人を減らす事が出来るかも知れない。時には後戻りする事はあるだろうけど、少なくともそんな気持ちで自分の出来ることはやっていきたいな、そう思った。