悲嘆と呪術的思考(医療訴訟など考えながら)

■喪失体験と呪術
大小は様々ではあるものの、ヒトは生きていくうちに喪失体験を何度も重ねていくと思います。手術により何らかの機能を損なうこと、親しい人との別離、ペットとの死別、親や子どもを失う事・・・
喪失体験により様々な哀しみが当事者を襲い、それは悲嘆と謂う言葉で説明されます。悲嘆の感情は通常、時間と供に変化をしますが、その変化のことを悲嘆のプロセスと説明されます。この悲嘆のプロセスとして、多く観察される症状(行動)の中に次のようなモノがあります。

それは 【自責感】 と 【不当感】 です。

前回のエントリで、どらねこは努力と願いの呪術性について乱暴な考察を行ったのですが、喪失体験を切っ掛けにして現れるこれらの症状にも呪術的なモノが大きく関係しているように思います*1

■自責感と不当感の呪術性
大切な何かを失った瞬間は真っ白となり深く考える事が難しい状態になることが多い事が知られておりますが、深い悲しみを経た後、次第に色々な事を考えるようになるなります。
その時に現れる感情の中に【自責感】や【不当感】というものがあります。
自責感は自分があの時こうしていれば、このような哀しい出来事は起こらなかったのではないか、とかもっと出来ることがあったのではないか、と謂う感情です。
不当感はその感情を外側に向けたものと謂うのでしょうか、どうして私や大事な人ばかりこんな酷い目に遇わなければならないのだ・・・、私やあの人は何も悪いことをしていないのに・・・。こんな事になったのは誰かのせいに違いない。そうしてやり場の無い感情は医療者や援助者に向けられる事もあるようです。
これらの感情は特別なモノではなく、多くの人で観察される正常な反応であると考えられております。しかし、これらの感情はとても呪術的であるように見えます。呪術との親和性は人間の基本仕様なのでしょう。
何も悪いことをしていないのに、こんなに酷い目に遇うはずがない、と謂うのは善行は善い結果として報われるモノであると謂う呪術的な発想が根本にあるだろうし、不当感は悪いことをしていないのに酷い目にあったと謂うのはあり得ない→誰かが呪ったからに違いないと謂う理路に直結する同じく呪術的な感覚であると説明できるでしょう。

■呪術には呪術
例えば、大切な一人息子がなんらかの病気により失ったケースがあったとする。その治療の成功率は一般に90%以上と考えられていたとすれば、その結果を親はどんな風に受け止めるでしょうか?
ショックから抜け出し、色々と考えられるようになると、大切な自分の息子が失われたことの理不尽さを感じるようになってくる。何も悪いことをしていないのにあんな目に遇うのは不当である。誰にも責任が無いなんてそんなのオカシイじゃないか!と。医療者が出来ることを怠ったのではないか?医療ミスがあったのではないか、などなど。
それを疑う具体的な事由や内容は無くても、理不尽な現実に対してはこのような考えに陥ることは自然な悲嘆のプロセスと考えられております。この場合に必要な対応はどんなものなのでしょうか?
実際には正解の無い問題であるため、その人それぞれに合った対応を探っていくことになるでしょう。しかしながら、正解が無いならと、哀しみに暮れている親族に対し、ありのままの事実を伝えれば良いのだと考えてしまうのは酷く乱暴な対応であり、そのような事が大きな禍根を残す原因になりかねないと思います。
家族が受け入れる態勢に至っていないときに、自分たちの行った対応が正当である、誤っていなかった事を伝えたら悲嘆に暮れている家族はどう受け取るでしょうか?前もって自分たちには責任は無いと言い訳をしに来たように感じるかも知れません。確率の話を説明したらどうでしょう?運が悪かっただけである・・・と。でも、家族はそんな説明を望んでいない事が多いのです。
自分たちの哀しみを受け止めて欲しい、同様に悲しんで欲しい、誠実に対応していた事を証明して欲しい、同じように快癒を望んで、願っていた事を見せて欲しいワケです。
このような非難や不当感は悲嘆のプロセスに於ける一過性のモノであると考えられます。この時期は傾聴に徹し、次のプロセスに進んでいることを読み取り、その時に冷静な話を行うように努めるわけです。それを行わないと、家族も医療者も双方ともに不幸な事態に陥ることが考えられます。
善意を確認されれば善意があったことを、誠意が必要とされていたのならば誠意を見せたことを伝え、説明が終わったからと謂って直ぐに立ち去らないで、家族とともに思いを共有する姿勢を見せる・・・などなど、呪術的な価値観による手続きを同じく行う事が求められるのだと思います。呪術的な対応を求めている相手に、理屈や科学を持ち出しても解決は難しいことでしょう。この辺りでヘタを行うと、医療訴訟などにも発展しかねない非常に大切なプロセスです。

■科学的に使用する
ここで勘違いが起こりそうなので、付け加えますが、呪術には呪術で対応と謂うのは、厭くまでも科学的に実証されているからこそ行われるものだと謂うことです。このような対応はグリーフケアの名で研究されており。数多くの事例から、どのような対応が後にどのような影響を与えるのか、どう対応するのが望ましいのかが分析されております。これらの知見に沿って、妥当であろうと考えられる対応を行うという、呪術的なプロセスを含む科学的な取り組みである事は忘れてはなりません。
ところが呪術について考えれば、標準的な医療よりも根拠の無い代替療法が得意とする分野ではないでしょうか。避けられない死を受け入れる事が出来ない、そんな家族が代替療法に縋ると謂うのも、このあたりが大きく影響しているのだと思います。しかし、代替療法などが与えるのは、願いに寄り添う幻想でしか有りません。

代替療法と喪失感
出産に於いてなんらかの不幸により、一生背負うハンデをもってうまれてきた場合にも同じようなプロセスを辿ると考えられます。同じ呪術を根源に持つ代替医療は悲嘆に暮れる親からは親和的にみえるのかもしれません。悲嘆のプロセスで現れる【自責感】に根拠のない代替療法は付け込んで来るのです。
貴方はコレを怠ったから、子どもはこんな状態になってしまった。罪を償うには、今度はこうしなければならないのです・・・と。呪いを解くためのおまじないが、新たな呪いを生み出すことを事例*2を通じて私たちは知っております。そうならない為には何が出来るのでしょうか?
医療の現場だけにそれを負わせる事は無責任でしょう。その為に出来る事って何だろう、事前に根拠のない代替療法のウチ、危険なものを危険と知ってもらえれば予防になる事でしょう。医療現場の実情を多くの方が共有することもその一つでしょうか。
呪術的なものと科学的な思考がキチンと区別して折り合いが付けられるようになれば理想なんだろうな、なんて思いますが、そんなの難しいですよね。どらねこは色々と考えてしまうのでした。ちょっと見当違いな事を書いていないか心配ですが、皆様ならどう考えたでしょうか?感想を頂ければ嬉しいです。

*1:どらねこの分析に過ぎませんので、どうぞご注意下さい

*2:マヤズムとそれに働きかけるレメディみたいな話