ラマルク的な何かと素朴生物学

タンポポの Wisdom はいくつであるのが妥当か?
id:IshidaTsuyoshi さんのエントリより

小学校の二年生になったわが子の国語の教科書に、タンポポが種子を成熟させてから、風に乗せて飛ばす経過を説明する文章が載っている。内容は、まったくもって自然科学の読み物であり、いわゆる「物語」の類ではない。雨の日には綿毛がしぼむことまで書いているあたり、自然科学の読み物として石田のすごく好きな部類の物である。
しかし、自分でも「こんな難癖つけなくても…」とか思いつつも、ちょっとだけ気になる点がある。それは、タイトルと本文の中でタンポポに知恵があるかのような表現をしている点だ。
<中略>
小学二年生でそのような納得をしてしまっても、たぶん中学校に進学するまでに「植物はなにか考えたり思ったりはしない」という知識は手に入れるだろう。そして、中学校の理科か高校の生物の授業で、本当はどういう経緯でそのすばらしい仕組みを獲得したのかを習うだろう。

いつも大切な事をヲモツていらっしゃる石田剛さん。昔はそう謂う事はあまり気にならないどらねこでしたが、ニセ科学関連の言説を目にする機会が増えるにつれ、「それって結構大切な部分なんだよね」と考えがすこしずつ変わってきました。
親や初等教育の現場では子どもには難しい話への理解を促すために、子どもの持ちやすい素朴な理論に寄り添う表現を使用する場合があります。上手に使えば効率的なこの方法が有効なのは勿論なのですが、その後理論の修正を行う態勢が整っていないと、誤った理解をそのままに大人になってしまうことも考えられます。これが十分でない事がニセ科学的言説への敷居を下げてしまっているのでは・・・そういう可能性が有りそうだなぁ、そう思うのです。
(素朴理論については別の機会にもう一度考えてみたいです)
そんなわけで、石田さんの例ほどには問題を孕んでいない話だと思いますが、私も子どもの絵本に突っ込みをしたことがあります。

さて、此だけだと知識をアップデート出来るから良いんじゃね?で、終わる話なのだけれども、この件はアップデートされない危険があるのでは?と、ヲモツタわけなのです。
中学理科の指導要領を見ると、

理科の第2分野に於いて、現存している生物は,進化によって生じたものであることを理解させる

とあり、進化についての授業が行われる事になっています。化石や現生生物の形態を比較観察することで気づかせようというねらいのようです。しかしながら、この段階では創造論的な考え方は棄却できるかも知れませんが、ラマルク的な進化論からダーウィン的視点の進化論へと書き換えるような説明にはならないだろうと思います。タンポポに仕組みを作る知恵は無いかも知れないが、「子孫をいっぱいのこしたいよう」という意思が、このように綿毛を進化をさせたのかも知れない!なんて、素朴な理論は十分生き延びることは可能でしょう。

そうなると、高校で習う単元である『生物』に期待する事になるのだけど、高等学校の理科系科目は、物理・下顎化学・生物・地学などの中から、数科目を選択するという方式が採られているみたいなのだ。だから、期待の生物Ⅱの範囲である『進化の仕組み』を習わずじまいのまま後期中等教育を終えてしまう可能性があるのですね。

この件については、理科教育に詳しい恐竜yu_kuboさんがツイッターで指摘してくださいました。

やっぱりそうなのですね・・・

さて、石田さんの例は国語の教科書ですが、理科教育に関して、ネット上にこんなのがありました。

ソニー科学教育研究会 支部研修報告書】
こちらの報告内容を引用してみる

小学校高学年部会 〜5学年「実や種子のでき方」でラマルクの用不用説を〜
 小学校高学年部会は5学年「実や種子のでき方」の単元にラマルクの用不用説を導入することを提案した。
 (模擬授業の設定として)これまでにリンゴやブドウ,カボチャなどヘチマに限らず複数の植物(作物)の受粉について学習してきた。本時ではブドウやトウモロコシには,なぜ花びらがないのか考えていく。花びらのあるものと無いものでは受粉の仕方がどのように違っているかを想起させたり,虫の目には花びらがどのように映っているかなどの資料を与えたりして,虫がこなくても受粉できる(風媒による)から,(虫を誘う道具である)花びらがいらないのではないかという見方・考え方をもたせていく。
 そこでラマルクの用不用説を語り聞かせ,よく使う器官は発達し,使わない器官は退化するという考え方を紹介する。

※強調はどらねこによる

この模擬授業内容については、協議に参加した方から「ラマルクの用不用説は一般的に見ても否定的な意見が多く,慎重に取り扱わなければならない説である」と意見が出ていたようで、ちょっと安心しましたが、このような研究会のお題にラマルクを持ってくるというのはどうよ?と正直げんなりしてしまいます。
とは謂うものの、この一例は糾弾する意図で紹介したわけではありません。小学校では生物学や進化生物学についてしっかり学んだ先生が理科を教えるわけではありませんから、こういった授業が何も問題ないものとして行われる危険性が何処の学校でもあるような気がします、それが心配になったのですね。有名な分子生物学のセンセイもラマルク的な進化論をプッシュしている昨今ですから、先生を責めるのも酷というものです。それだけ、生命の能動性みたいなものって魅力があるんだと思いますよ。(だって、感情的には遺伝子の乗り物だ!進化はイレギュラーの積み重ねだ!なんて謂われるよりは浪漫を感じちゃうかも知れないよね)
学校側は小学生のウチにこのような理解を持ってそのまま中等教育機関へ進学してくるという可能性が高い事を想定しておく必要があるのだと思います。(先生個々人は既に想定されていると思いますが・・・)子ども達はもしかしたら、「たんぽぽは自分の子孫を増やしたいと強く願ったから進化の過程で綿毛をつくるようになったのかも知れない」なんて理解のママで有るかも知れません。

だから、待ち受ける中等教育機関には、生物に造詣の深い理科の先生を一人は置いて欲しいと思うんですよね。子ども達が持ったままの素朴理論を調べるテストかなんかやってみて、在学中に修正を加えていく方針をたてる・・・みたいなね。そんなのはどうでしょう?
難しいとは思いますが、大切な問題であると思います。高校入学時に読み物を配るとかもアリかも知れませんね。
まだまだ語りたいことは山ほどありますが、今回はこのへんで・・・




※生物学に疎い者が書いているので、見当外れな指摘があったら教えてくださいね※