文化や科学の進歩がヒトの進化と混同されてる?

近頃の若い子はスタイル良いよね。

こうした話を振られると、どうしても戸惑ってしまいます。
もしかすると、ただ単に自分の世代の平均的体型と若い世代の違いを見て驚嘆しているだけかも知れませんが、その原因について思いを馳せながらのコトバであるなら、どらねこは身構えてしまいます。
成長期の栄養状態の違いからこのような差が生まれたんだろうな、という風に思っているのでしたら良いのですが、日本人の遺伝子が変化したため、と考える人も意外といらっしゃるので、びくっとしてしまうのです。

生き物は外部環境の変化によっても、表面上の形態や特徴が変化することが知られております。遺伝的な形質は同じであっても現れる表現型は、周囲の環境によっても影響を受ける事があるからで、これは進化ではありません。周囲の環境が広範囲に同時に同じような変化が起こったとすれば、そこに住む集団に同じような変化(例えば身長が高くなる)が現れてもおかしくないのですね。

昔はどらねこも似たような理解でした。

現代人は昔の人間に比べて進化している

上記の場合の進化は厳密な意味での『進化』ではなく、進歩を大きく含むものです。幼少期のどらねこは人間はどんどん進化していて、だんだんとサルから人間になり、頭もどんどん良くなっているとと思いこんでおりました。どうしてそんな風に思ったのかといえば、用不用説で説明されるキリンの首みたいなものでしょうね。道具を使っているウチに頭が鍛えられ、徐々に難しいことを扱えるようになり、それにつれて更に知能が高くなっていった・・・みたいにね。
やっぱり用不用説みたいな努力で身につく系の話は、子どもの持つ直観的な素朴な理解ととても親和性が高いんですよね。人間の基本仕様*1なんだろうな、と思います。

人間が進化(進歩的な)しているのなら、民族によってもその差はあるのではないか?そこから更に、自国民には優れた知性に裏打ちされたスバラシイ文化があるわけだから、我々こそ相手よりもすぐれた進化した民族であるという風にエスカレートした考えに至ってしまうかも知れません。
しかし、これらは本当に遺伝で規定されている知能の違いによるものなのでしょうか?たまたま読んでいた本の中に次のような記述があったので引用いたします。

ヴィゴツキー心理学論集 柴田吉松・宮坂除゚子 訳 学文社 刊 p19より

原始人についての書物を取り上げてみると、次のような事例にぶつかる。原始人の思考の独自性は、私たちのもっているような機能が十分に発達していないということでも、なんらかの機能が欠如しているわけでもなく、私たちの観点からみると、これらの機能の別の配列がなされるのである。
<中略>
生物学的側面からみて人間の脳が人類の長い歴史のなかで重大な進化をとげたと仮定する根拠はない。原始人の脳が私たちの脳とは異なっており、質的に劣っていて、私たちとは異なる生物学的構造をもっていたと仮定する根拠はない。すべての生物学的研究は、私たちの知っているもっとも原始的な人間でも生物学的な面から言っても、人間の称号に完全に値するという考えに達している。人間の生物学的進化は、その歴史的発達が始まるまでに完成したのである。そして、私たちの思考と原始人の思考の違いを原始人が生物学的発達の別の水準にあるためなのだと説明しようとする試みは、生物学的進化と歴史発達の概念のひどい混同を来すことになろう。

  • 心理システムについて−1930年

1930年当時、既にこのような主張が為されていた事に感心してしまいました。(まあ、進化論もそうなのですが・・・)
現代人の赤ん坊を原始時代と同じ環境を与えて育てれば、当時の文化、思考、知性を身につけるだろう事は予測できます。もしどらねこが学校もないような過酷な状況にある別の国に生まれたとしたら、文字も理解できず、体系だった知識を身につける事のないまま大人になったとしても不思議はありません。ただ単に幸運であった事を理解しているのなら、相手の持つ文化を見て、劣るであるとか、野蛮であるとか考えるのは難しくなると思うんですよね・・・。

80年以上経った現代でも進化に関わるこのような誤解は無くなろうとしません。それだけ、人間の素朴な自然観・科学観と謂うのは強大なのかも知れません。

*1:このあたりは正義と倫理、あと努力は報われる呪術の世界などが強く関連しているのでしょうね。残念ながら力不足で何時になる事やら・・・ですが、いつかは書いてみたいです。