欠如モデルがわからない

どらねこは欠如モデルと謂うコトバに対し色々とモヤモヤしております。そのモヤモヤをなんとなく書いてみます。まぁ、個人的なモヤモヤなので逸脱についてはご容赦を。

■モヤモヤ
最初のモヤモヤはある科学コミュニケーションについて勉強していたとされる人物が『欠如モデル』について説明した文章を読んだときに感じたものです。それは次のようなニュアンスの物でした。

知識豊富な教師が無知な子どもに対して知識を提供する学校の理科の授業のようなもの

これが科学コミュニケーションを学んだ方が想定する欠如モデルの共通認識なのかは知りませんが、小学校教育が欠如モデル的なものだとしたら、それは小学校教育をバカにしているのか、欠如モデル自体、案外スジが良いものであると謂う事なのかも知れません。

当たり前の事を書きますが、初等教育は一般的な児童の発達状況や情報操作の特性などに配慮しつつ、一人一人の状況を見ながら、基本は守りつつ、各教師が創意工夫をして授業を行っているはずです。決して空っぽの器だから水を注げば良いと謂う考え方で知識を詰め込む場ではないのですね。
また、以前も書いた*1と思うのですが、科学教育を行う場合には、子どもの持つ日常知に合致した素朴な科学理論(以下素朴概念)に配慮した学習計画が必要とされます。子どもに対しその素朴概念は誤りですよ、と反証のみを示しただけでは、科学理論へのアップデートは容易ではない事が報告されております。知識偏重の学力観は未だに残ってはおりますし、学校という構造がトップダウン的に知識を施す仕組みであることは間違い有りませんが、ただ単に空っぽの器に水を注げば良いと謂ったような考え方で授業が行われているような印象を与えてしまうような表現は如何なモノだろうと、どらねこは思ったのです。

■不特定多数人に語る事
そもそも知識が足りない状況にある人が、理解をする為に必要な知識の提供無くして、理解に至ることは極めて困難であると思います。なので、知識を満たす為の水は必要不可欠なのですが、その注ぎ方に問題があるのでは無いのか?と謂う事なのだと思います。こうなればどらねこのアタマでも理解出来ます。なので、個人的には欠如モデルがまずあるのだけど、単純な欠如モデルではダメで、そんな事を悠長にやっているヒトなんて世の中にはあまり居ないんだと思います。
しかし、条件が整わなくて、結果そんな風に見える情報提供になってしまっていると謂う事例なんかはありそうだと思ってます。例えば、小学校教育では特定の30名程度の児童に対し、同じ人物が継続的に教育機会を持つと謂う特徴がありますが、科学コミュニケーションで想定されるケースでは、不特定多数人に対し、同じとは限らない人物が、単発もしくは短期的に行われると謂う特徴があるように思います。こうした構造の違いから、十分に介入できない為、効果的に水で満たす事ができない、なんて事も有るのかも知れません。構造上の問題があり、不本意ながらも不十分な情報伝達や遣り取りが為されていないと謂う現状は確かにあると思います。
伝えたいけど資源が足りない、不足は承知で情報伝達に努めている、そんなヒトも居ることでしょう。でも、そんな事情をお構いなしに、「日本の科学者は欠如モデルに基づいて科学コミュニケーションをやっているから、何も伝わらない」なんて事を謂うヒトがいたら、ちょっと残念だなぁ、と思ってしまいます。
欠如モデルと謂うコトバが変なレッテルにならなければいいなぁ、みたいな不安があるんですよね。にゃ〜