相互作用とか発達とか科学とか

先日のエントリにちょっと関連したりする話。
某氏の日記を見ていてちょっとマネしてみたり、思いついたことなどを適当に書いてみる。論の体を為してないかもなので、注意してね。
前回エントリのコメント欄でピアジェの理論は否定されたなんて、ちょっと乱暴な事を書いてしまったけれど、彼は子どもが持つ大人と違う思考方法やその発達について、系統的に調査し記述した偉大な科学者なのです(私が言うまでも無いことですが)。発達心理学は、ピアジェの切り開いた山道を辿ることで新たな風景が見えてきたわけですね。
ところで、発達心理学は教育問題を考える上では外す事の出来ない研究分野であるのは勿論なのですが、ニセ科学問題を考える上でも参考になったりするんですよね。だからどらねこは、関連書籍を申し訳程度に読んだりもしている。
ちょっと昔の本だけれど、子どもがどうやって科学的な認識を形成するのかを論じている教材があるので、引用させて貰います。引用ページの執筆者、青木多寿子先生は猫好きみたいなので。
引用もとの文献全て此方、【児童心理学 放送大学教育振興会(1998) 】からのものです
某氏は完全同意して下さると思うが、放送大学のテキストには優れたものが多い。所謂文系の自分がNMRの理解で悩んでいたときゼミのボスが紹介してくれた『有機構造解析』のテキストは歴史から勉強できてとても参考になった。様々な分野の基礎知識を学ぶには優れた教材が山ほど有るので興味のある方は一度手に取ってみて欲しい。
えーと、何のはなしだっけ?

あ、前回ちょこっと触れた、素朴理論についてでした。
素朴理論は、日常的な生活体験や経験を積み重ねていくウチに獲得する概念の事で、素朴物理学、素朴心理学、素朴生物学などをひっくるめたものです。通常、子どもは大人から特別系統立てて教えられなくても、自然現象のルールらしきものを認識したり、自分に照らし合わせることで、他者の心理を予測できるようになったりします。ホントすごいですねぇ。でも、因果関係を整理し、論理的手続きにより整理された理論じゃないから、実感できないような事象に対しては正しい理解に結びつきにくい。例えば、小さな子どもが「地球は丸い」という話を聞いて、球体で有ることを実感することは困難であると思うし、教えられる事無く、球体で有ることを認識することは出来ないだろう。だから、大人が、地球は丸いんだよ、と説明したとしても、じゃあ、端っこまで行ったら下に落ちちゃうの?みたいな疑問が出てきたりするみたい。
素朴理論って、結構強固なものみたいだから、この日常から形成される理論を念頭に置いて、科学理論を教えられているのか否か、これが科学教育に於いてはそうとう重要な事なんじゃないかなぁ、そう思うんですね。

素朴理論と科学理論 (p52)
ウェルマン(1990)は、科学理論と素朴理論の違いについて次のように述べている。まず、科学理論は一貫性を持っており、個々の仮説で構成され、理論のかけらもまた理論である。しかし、日常の素朴理論の方は、仮説で構成されているのでなく、経験的な特殊な個別例を発展させたものだから科学理論ほど一貫性がない。このため、たとえ経験を積むことで、個々についてものの見方考え方が変わったとしても、そのことから理論全体の枠組みが変わることはきわめてまれである。これに反し、科学理論の方は、理論のかけらも理論で、全体が一貫している。そのため、一つ変化すると、その全体が変化することになる。

日常的な知識はなかなか変化しない、コレがくせ者なんですよね。湿潤療法が直ぐに受け入れられなかったというのも、渇かしてカサブタができて、傷が治るという日常の経験が影響しているのだとおもう。
科学の学習にさいしては、このような素朴理論を科学理論に組み替える必要があるのだけれど、なかなかどうして、一筋縄ではいかないらしい。

素朴理論の根強さ (p50,51)
クーンら(1988)は、風邪と食事の関係の調査と称して小学生の児童たちの意見を聞き、科学的な証拠を子どもたちに示す実験を行った。その結果、子どもたちは与えられたデータが自分の「理論」と一致している時はデータに基づいた答えをしたが、データが理論と一致しない時はデータの解釈を歪めることが多いことがわかった。

引用文の方はトーマス・クーン氏ではなく、教育心理学のディアナ・クーン氏です。これは示唆に富みますねぇ。ニセ科学的情報を修正しようとする場面ではよく見られる事柄でもありますし、子どもに物事をおしえる時にも十分注意したいところです。だって、自分の素朴な概念と相反することを教えられたら、表面上は「ハイ、ハイ」と聞いているかも知れないけれど、裏では「そうはいうけど、やっぱりおかしいよな?」なんて、思っているかも知れないのですから。

(p54,55)
学校教育で教える科学的知識も、これらの区別がなされているとはいえないので、本当の科学とも、日常生活とも異なる、両方の特性を持ったものが教えられることになる。
<中略>
小学生に理科を教える際には、子どもが子どもなりの理論を持っていることを大前提に、子どもの素朴な発想を確かめながら、その理論に働きかける態度が必要であろう。


現実問題、児童数の少ない学校では理科免許を持った専任教諭がいないところもあるだろうし、今のままでは本当に難しいと思う。長崎大学の長島先生の試み的なものが全国の教員養成系大学で行われるようになれば、心強いのだけれどねぇ、なんてどらねこ的には思ってしまう。
あと、大学合格をゴールに据えたようなやり方は、高校生の受験知学力を高くする事はできるけど、素朴概念の脱却とは必ずしも連動しないと思う。試験問題には正解するだけなら、素朴理論を科学理論に入れ替えなくても出来るから。受験勉強が終われば、元の素朴理論に戻るのはおかしい事じゃない。だから、大学卒業しても・・・というヒトは出てきてもおかしくないんだよね、きっと。
ちょっと乱暴だけど、そんな事をちょっと考えたりしてます。
発達心理学関連ではまた何か書こうと思います。