近道と落とし穴

『アフリカで誕生した人類が日本人になるまで』ソフトバンク新書 溝口優司 著)という本を読んだ。

この本は、人類学者の筆者がアフリカで誕生した人類がどのようなルートからどれぐらいの時間をかけて、日本に到達し、現代日本人となったのかを有力な学説に個人の推測も交えながら紹介すると謂う、一般向けの科学読み物です。
これを採り上げたのは本のレビューが目的ではなくて、学術的、科学的な説明を一般の方に行う場合招きやすい誤解について非常に慎重に書かれているんじゃないかな、と思ったからです。ちょっとわかりにくく書いてみますと・・・

分かりやすい説明には落とし穴があることを自覚すれば、落とし穴の場所を示して解決できる

・・・と謂う事になりましょうか。

■進化の誤解
子ども時代の定番だと思いますが、「キリンの首はどうして長いの?」と謂う知的好奇心から生まれる質問があります。幼少期のどらねこは『なぜなに百科』みたいな本をこよなく愛していたような記憶があります。本には回答として、高いところにある葉っぱを食べようと努力をしているウチに徐々に長くなったんだ、と説明されていたように覚えております。
本には左側に首の短い動物が書いてあり、一番右側の首の長いキリンに向かって、少しずつ首の長くなる様子が書かれておりました。首を長くしようと謂う意思が首を長くする・・・う〜ん、生命の不思議、なんて思ったものです。
上記に示した様な『進化には目的がある』という説明は子どもの持つ素朴な科学とも矛盾が少なく、直観的にもしっくりとくる感じがします。鍛えれば筋肉がつくというような、実際に観察できる事象とも整合性があるからなのでしょうか。『進化には目的がある』、『獲得した形質は子孫にも受け継がれる』そうした誤解が生まれる下地はそんなところにあるような気がするのです。

では、こうした誤解が起こらないように説明すれば良い、と謂う事になるのですが、学問的知識の少ないヒトにもわかりやすく説明しようとなると、どうしても専門用語を少なくせざるを得ません。ところが日常使用する言葉は多義的であり、どうしても読者が既に持っている知識や直観に矛盾しないような解釈をしてしまう可能性を持っております。読み物の場合、用語説明に大きく紙面を割く事は難しくその点の誤解を解く事が難しいとどらねこは思います。

例えば、『猫は、足音を消して獲物に近づく為に柔らかい肉球を持つように進化した』と謂う文章がそんな誤解を招きやすいのでは無いかと思います。獲物を捕りたいから、その為には柔らかい肉球を、というようにまるで目的があるから進化したように受けとられてしまいそうです。しかし、読み物としてのリズムを重視した場合には、上記の表現は有効であるかも知れません。堅苦しくってあきてしまわれたら啓蒙書として用を足さないわけですから。
なので、陥りやすい誤解を予測しておき、進化には目的なんてないんですよ〜、と先回りして説明して理解を得ておけば安心して、分かりやすく読みやすい表現を使用する事が可能になると思うんです。

■誤解を招きそうなので何度もいいました
この本は読み物としてのおもしろさを保ちながら、誤解を招きそうな箇所は先回りや、繰り返しをしてしっかりと理解に導こうとしているように感じました。寧ろ、本の内容よりもそっちの方に感心をしてしまいました。(どうもすみません)
そんなわけで、どらねこが感心した箇所などを引用させてもらいます。

p24より
「形質」とは、遺伝子に基づいた形態的・生理的な特徴のことで、後天的に獲得した特徴とは異なります。たとえば、もともと不器用だった人が、一所懸命訓練して細かい作業ができるようになったしても、あとから得たその器用さは子には遺伝しません。同様に大きな犬歯を削って小さくしても、生まれる子の犬歯は小さくなりません。これらは後天的に獲得した特徴であり、遺伝子に基づいた特徴ではないためです。

用不用説として未だにお目にかかることがあります。

p73より
イヴ仮説、はアメリカの人類遺伝学者レベッカ・キャンとマークストーンキング、アラン・ウィルソンによって1987年に発表され、人類学の世界に大きな衝撃を与えました。その当時の彼らの仮説によれば、私たち現代人のmtDNAはすべて、19〜14万年前のアフリカに棲息していた1人の女性"ミトコンドリア・イヴ"のmtDNAの子孫だというのです。

p73〜76より
ところで、あなたは、「私たちの起源はアフリカの1人の女性である」と「私たちのmtDNAの起源はアフリカの1人の女性のmtDNAである」との違いがおわかりでしょうか?少し長くなりますが、説明しておきましょう。
<中略>
1人の個体の1本の染色体(すなわち核DNA)自身の祖先は、ちょうど時間軸を下れば下るほど沢山の子どもがいるのと同じように、時間軸を遡れば遡るほど、たくさんの祖先がいることになるのです。過去に遡ったら1人の祖先に行き着いた、ということにはならないわけです。

本文中では筆者はもう少し詳しく、卵子由来のmtDNAがアフリカの女性一人に行き着く事と、人類の起源がアフリカ人の一人の女性という説明が同じでないことを説明します。そうしてありがちなミトコンドリア・イヴの誤解を解く*1コトを試みています。

p76より
アフリカを出たあとのホモ・サピエンスに、ボトルネック効果が働いた可能性のあることが指摘されています。ボトルネック効果とは、狭い瓶の口を通り抜けるときのように、何らかの支障があってそこを通過できる数量が減り、たまたま通過した者の特徴(遺伝子)のみが、その子孫の集団に受け継がれることを言います。

p93より
実は、ある形質が進化の過程で残っていくかどうかは、環境に適応しているかどうかだけでなく、偶然に左右されることがままあるのです。特にボトルネック効果が働いたときなどは、そこを通り抜けた人がたまたま備えていた形質が、子孫に受け継がれていくことになります。

たまたまです、偶然ですよ、としつこく言及しているところがステキだなぁ、と思います。目的を持って進化しているわけでは無い、そう強調したい筆者の意図が感じられます。

■理論をアップデートするということ
他者が持つ既存の知識や理論をアップデートすると謂うのは容易ではないと思います。だからこそ、元々もっている理解と矛盾している説明には理論をねじ曲げて理解する傾向が人間にあることを踏まえ、丁寧に陥りやすい誤解を拾い上げながら説明することがとても大切になると思うのです。子どもであれば、持っている知識の量も少なく、書き換えは比較的容易かも知れませんが、大人となるとそう簡単にはいかないことでしょう。こどもに対して誤った科学理論や理解をなるべく与えないように大人は慎重な態度で接して欲しいと思うのです。どらねこは上記の理由で小学校でも理科などは専門の先生を置いて対応をして貰いたいという考えを持っていたりします。
どらねこは以前にもこれと関連する記事も書いてますので、興味のある方はどうぞ。

関連エントリ
ラマルク的な何かと素朴生物学http://d.hatena.ne.jp/doramao/20100513/1273741564
相互作用とか発達とか科学とかhttp://d.hatena.ne.jp/doramao/20100516/1273987318

■次回
どらねこの周囲を見ると、進化に対する誤解や、素朴な自然観などが、大人になっても温存されている方が結構いらっしゃるように思います。ニセ科学や自然を謳うような代替・伝統療法ではそんな誤解に基づくロジックで自説を展開する場面をよく見かけます。
ニセ科学や根拠の無い代替療法に嵌らない為には・・・そのためのヒントがこのあたりに隠されていないでしょうか。
次回は本書からの引用を交えながら、マクロビオティックや自然療法が入り込んでくる隙間などについて考えてみたいと思います。

*1:説明中には、もう一つ別の誤解を招きそうな記述もあると思う。ここはもうちょっと説明しておいた方が良いかな、とどらねこ的には思います。→http://blogs.dion.ne.jp/doramao/archives/8319180.html