マクロビは「優しい」疑似科学か?


バッタもん日記というブログの「科学は疑似科学に勝てません」
http://d.hatena.ne.jp/locust0138/20120819/1345381265

という記事を読んで、マクロビオティックへの言及について気になった部分がありましたので自分の考えを述べてみようと思いました。



疑似科学の優しさ?
当該記事は科学は疑似科学にどうして勝てないのか、という問いかけとその理由の推測について書かれた記事です。
その中にどらねこが今まで度々言及をしてきたマクロビオティックという文字があり、疑似科学の謳う万能性の一例として挙げておりました。

科学は疑似科学に勝てませんより
マクロビオティックを実践して玄米を食べれば、どんな病気も治る。


そして、科学では無くマクロビオティック(以下マクロビ)を含めた疑似科学をどうして信用してしまうのだろう?という観点でブログ主の方は幾つかの考察を行っております。どらねこはその中で次の一節について少し気になるところがありました。

科学は疑似科学に勝てませんより
ところが、疑似科学提唱者・信奉者は、科学を「人間の夢を叶えるお手軽で便利な魔法」と捉えているようです。魔法だから万能なのは当然です。
だからこそ、疑似科学は人間の心をひきつけてやまないのです。対して努力もせずに、時間も金も掛けずに夢を叶えてくれるのですから、支持されるのは当然です。

また、科学は根本的に人間の気持ちを考慮しませんので、どうしても「冷たく」見えてしまうことが避けられません。何より大事なのは「正しいかどうか」です。「当事者がどう思うか」ではありません。人間の感情と自然現象は全く無関係ですから。個人の「思い」で物理法則は変わりません。
一方の疑似科学は、人間の夢を叶えることのみを目的としていますので、非常に「優しく」見えます。何より大事なのは「当事者がどう思うか」です。個人の「思い」で物理法則は変わるようです。


ブログ主の方は、疑似科学「優しい」「努力もせずに、時間も金もかけずに夢を叶える」と述べておりますが、これは果たしてそうなのでしょうか? マクロビに絞ってどらねこの意見を書いてみようと思います。


■マクロビは優しい?
どらねこは今まで疑似科学*1の一つとしてのマクロビに対し色々と批判的に言及しているのですが、観察を通じて「優しく」もないし、「時間」も「努力」も「お金」も要求するという印象を持っております。なので、少なくともマクロビについてはそれは当てはまらないのでは無いか、と考えております。
マクロビの考え方は玄米を食べれば・・・と安易ではあるものの、健康を手に入れるために必要なこととされる内容は決して簡単な物ではありません。
例を挙げてみますと、上白糖はダメ、肉ダメ、乳製品ダメ、南国の果物はダメ、テレビは子供に見せない、電子レンジは危険だ、合成添加物は・・・などなど現代日本で平均的な生活を営んでいる方にとっては非常に厳しい制限が課される事になります。そうして、禁欲的な努力を積み重ねる事ではじめて「健康」を手に入れることができる、と謳っているワケです。
「甘い」と見える部分は「必ず健康になれる」というような結果を約束している部分でしょう。そして、約束された望ましい結果が達成できなった場合には本人の努力が足りなかったから・・・そんなロジックになっています。その内実は決して優しくないのです。


■なぜ惹かれるのか?
そうしたマクロビのような疑似科学には厨二病心をくすぐるあやしい魅力があるのかも知れませんが、分別のあるだろう大人がはまってしまう事を考えるとそれだけではないと思います。人には呪術的とも認識されるような、因果応報、世界は公正なものであるという幻想や信念を持ちやすい傾向があるからではないかと、どらねこは考えております。
「努力は必ず報われる」、「為せばなる」なんて言葉もありますし、「良いことをすれば自分に返ってくる」という素朴な認識は多くの方にはスッと受け入れられ易い考えだと思うんですね。
何か悪い事が起こったとき、人はその原因を推測します。例えば、風邪をひいたときには寝不足がたたったのだろうか?とか、栄養状態が悪かったかも知れない、あるいは薄着をしたせいかもしれない、と原因を求めます。勿論、生活習慣を整える事で予防できる病気はたくさんありますが、いくら気をつけても病気になってしまうことはあります。
そして、自分や周囲の人が重篤な病気に陥ったときには、今までの生活習慣に問題があったからではないか、もっと節制をすれば良かったのではないか・・・と後悔の念がわき上がってくるのは自然な成り行きかもしれません。そのような心理状況に有るときに、正しい修養を前提として「結果を保障する」という考えが受け入れやすいものに感じるのだろうとどらねこは考えます。努力は必ず報われる、そしてその努力は何となく悪そうなイメージを持つ物を絶つことであり、昔ながらの良いとされる日本人らしい食生活を行う・・・とされれば信憑性を感じる人もいることでしょう。詳細な知識を持たない人にとってはある意味合理的な判断でしょう。


■合理的であるからこそ
さて、最後にマクロビ(疑似科学)を採用するのは「科学」が「冷たく見える」からなのか、について考えてみます。
マクロビ(疑似科学)を採り入れてしまうのはある意味、マクロビに採り入れるだけの合理性を見いだしたからだと思います。そして、科学は我々に便利な生活を与えてくれたある意味「優しい」存在なわけです。そんな「科学」の溢れた「現代日本」で「怠惰」な生活をした報いが「病気」であるというのが潜在的な認識にあっても不思議は無いと思うのです。
そうした認識に合致した説明を選好するというのは、公正世界を強く信じる人にとってはある意味当たり前*2の事ではないでしょうか。つまり、行き過ぎた科学の進展による潜在的な怖れ*3が根元にあるのだろうという事です。
マクロビのような疑似科学が堂々と栄養学の本の横に並んでいるような現状は何とかして欲しい・・・どらねこもそう思いますが、ショートカットは難しいでしょう。少しずつでも解決する為には、努力は必ず報われる的な信念などは、実は幻想なんだよ? というような認知的バイアスを丁寧に取り除いていくような試みが不可欠なのだろうと、どらねこは考えます。

*1:普段はニセ科学という用語を使用しているが言及先に合わせて疑似科学とした

*2:罪悪感を持った病気で追い詰められた人にとっては当たり前という意味です。考える資源のある人については当たり前とはいえないでしょう。

*3:自然破壊や生活習慣病の蔓延など・・・どらねこの主観ですが厭くまで科学はツールである事を切り分けて考えるのは難しいのかも知れません