いじめられる側にも問題があるといじめられている人に思わせないで欲しい

いじめ問題が話題となっております。それら問題について論じている報道や記事などのツイートが流れてきたりするのを目にしておりましたが、なんとなくしっくり来ないものばかりでした。自分で考えてみてもコレという答えがでてきたわけではありませんが、個人的に思ったことを書いてみます。起承転結もまとまりも無い記事となっております(本当に)が、どうぞご了承下さい。


■風邪をひいて苦しんでいるのに責められる
先日、息子が二人とも風邪をひきました。お医者さんに連れて行き、のどのお薬などを貰ってきたのですが、仕方の無い事ではあると思いつつもこんな時に(いつでもそう思うのですが)病気になりやがってと考えてしまいます。なのでついついこんな言葉を息子にぶつけてしまう事もあります。

「ちゃんと手を洗わないから風邪をひいたんだ」
「早く寝ないから風邪をひいたんだ」
「お風呂上がりに裸でうろついていたから」
「寒いのに薄着をしたから・・・」
「ちゃんという事をきかないから・・・」

いくらでも挙げられるくらい思いつきます。
ところで、自分も風邪をひく事があるのですが、似たようなセリフで責められた記憶があります。でも、本人的にはそんな事いわれても・・・と、思った記憶もあります。具合が悪いので悪態をつくと優しく看病して貰えなくなるおそれがあるため、内心では「弱い身体に生んだのは誰だよ!」と毒づいたりしたのでした。
でも、よく考えてみるとそれなりに予防に努めていても風邪をひいてしまう事ってありますよね。世の中は必ずしも本人に落ち度がなくても、不幸に見舞われてしまう事はいっぱいあるはずなのですが、なぜか原因を人に求めてしまう傾向が人にはあるようです。そして、自分の問題は原因を「他者」や「環境」に求めるような傾向があるようです。
現実の世の中はそんなに単純な構図はあまりないと思うのですが、そうした考え方の傾向との乖離がいつまで経っても問題の根本原因を放置する要因となっているのかも知れません。風邪の例で考えれば子どの性質からすれば、そんな要求を子どもにするのは無茶というものです。子どもがそのように振る舞うように環境を整える事や、必要な予防接種を事前に施すこと、親が子どもに風邪をうつさないよう、自身の健康管理に気を配る事が大事なはずです。また、子どもに対しても、何も責めずに優しく接してあげて、治ったてきた頃合いに、ちゃんと○○できたから良くなったね、これからはもう少し○○を早くしようね、みたいな話しかけをすればもう少し聞いて貰えるかも知れません。とはいえ、夫婦ゲンカ中やお仕事多忙状態ではそんな余裕を持てないかも知れません。子どもが割を食わないためにも、大人もゆったりと余裕を持てるのが理想だと怠け者の私は思うのです。


■被害者に落ち度を求めてしまうような心理傾向
話がだいぶそれてしまいましたが、人間はこのような感じで原因を推測するような傾向があり、それが不幸や犯罪の被害に遭った人を逆に責めるような現象にもつながる事があるようです。例えば、女性の痴漢被害者が居たとして、彼女が薄着をしていた事が痴漢を招いたのではないか、などと被害者の落ち度に原因を求めてしまうようなものです。因果応報、悪い物は裁かれるべきだ、良いことをした人は報われて欲しい、そうした素朴な期待を持つ事は悪い事では無いのですが、考えが行きすぎれば、その人にも問題があったから酷い目にあっているのだ、という理屈へと発展してしまいます。こうした世界は公正であるという自分の中の幻想を守るように相手の落ち度を自然に推測してしまう傾向が被害者の落ち度を持ち出してしまうのです。実は、こうした傾向がいじめや部落差別などを見ても見ぬふり、あるいは正当化する理路として用いられたりします。「そうはいってもやはりいじめられる側にも問題がある」そんな風に考えてしまった事のある人は少なくないと思います。


■認めて貰えない事
何らかの原因でクラスメイトなどからいじめを受けるようになった人がいたとします。いじめの内容は悪化し、長引いて来たとしても自分の中にとどめ、周囲には助けを求めないという例が多いこともよく知られております。いじめが新聞記事になったときなどに、なぜもっと早く相談をしてくれなかったのか?などと関係者がコメントをする事がありますが、そこまでの事態に陥らない事例は相談をできる人がいたり、本人が相談できるような性格であったという事です。相談もできない、相談しようとも思えない状況だからこそそんな事態に陥ったとも考えられるでしょう。どうして周囲に相談をしないのか、その理由も人それぞれではあると思いますが、本人のプライドも影響していると考えられます。周囲に話すことはいじめられている自分を認めてしまう事になる・・・いじめられている自分を周囲に話す事は最後のよりどころであるプライドをズタズタにしてしまうかもしれません。良き援助者となりそうな人が周囲に居ても相談とならない難しさのある問題です。
そしてそこにも「被害者にも落ち度がある」という考えが影響をしているように私は思います。大抵の深刻ないじめは「被害者1人対多」の関係です。積極的ないじめ加害者数人とそれを傍観する多数という構図が多いと思います。いじめの当事者も周囲の人も、いじめ行為は相手の行動にも原因があると考える傾向があります。そして、被害者自身もそう考える可能性があります。自分が単に一人から責められる場合には、原因を外部環境に求める事もできますが、周囲に誰も味方のいない状態であれば、「相手にも問題があるかもしれないが自分にも問題があるかも知れない」、若しくは「自分に非があるからこんな状況になっている」と考えてしまう可能性が高くなります。これも大問題です。
そして、「いじめられる」という状態が世間からどのように見られるものなのか、という事も察知しております。被害者にも落ち度論の恐ろしいところは、「被害を受ける=恥ずかしいこと」という状況をつくってしまうことなのです。いじめられている恥ずかしい自分を周囲に打ち明けるという行為の残虐さを直視しないでどうしてそんな単純なアドバイスを・・・そう思わせるような言葉を識者と呼ばれる人物から発せられるのを見たことがあります。
加害者に問題があるというのに、本人が直接的な苦痛の他に「後ろめたさ」と「恥ずかしさ」を同時に持ってしまうようないじめという問題は非常に恐ろしいものだと思います。このがんじがらめの状態で人生経験の少ない若い子が自ら脱出する事を期待するというのは周囲の怠慢だと思います。


■匿名性
誰も味方をしてくれないという状況が「自分にも非が」と被害者を更に苦しめるのだとしても、それを解決するのもまた難しいのだと思います。その一つが匿名性でしょう。クラスにいじめがあったとしても、積極的に参加するのは数人というケースが多いと思いますが、その数人を諫めない大多数のクラスメイトも消極的な加害者であると思います。傍観をしている一人一人にはいじめは良くないという認識はあるものの、自分は当事者ではない多くのクラスメイトの単なる一人であるという匿名性がもともと持っている規範性を薄めてしまうようです。匿名といえば、某匿名掲示板を私は思い浮かべますが、中には日常ではお目にかかれないような言語表現が飛び交うスレッドも存在します。しかし、そこに書き込む人々が現実社会で同じように日常振る舞っているとはとても思えません。匿名の多数人から当事者になれば態度も変わるの事が期待できますが、その為には被害者が名前を呼んで助けなどを求めるという手続きが必要になります。それが非常にハードルの高いことだというのは前節で書いた通りです。効果は薄いかも知れませんが、いじめられている人を見かけたときには周囲の人の援助が非常に大切であるという事をしっかりと教えていく事も必要なのかなぁと思ってはいます。


■学校という性格上の問題
原因は一つではないでしょう。でも、切っ掛けになる出来事もまた、学校特有の問題が関係しているかも知れません。例えば、学校では公正さや社会的な望ましい行動が規範として児童、生徒に求めます。
いじめの切っ掛けには、こうした学校の方針(明確なものと隠れたカリキュラム的なものの両者を含む)からの逸脱した行為が絡んでいるケースがあるようにも思います。例えば、目立つ生徒もまたいじめの対象となるようです。何事も平等に分配されるべきものという平等分配こそが公正の基準として認識しがちな子供にとっては、教員から贔屓されている(ように見える)、勉強が良く出来て高い評価を受けている生徒がいじめられるというケースは、不当な分配若しくは不公正に映るかも知れません。こうした不正はただされるべきもの・・・と、妬みが正当化され「いじめ」的行為を誘発する可能性もあるでしょう。
また、小学校などにあるような外見や行動が変わった子供に対する「差別」、「いじめ」は、授業中は静かにしましょうとか、礼儀正しい挨拶を、とか友達同士は仲良くという子供に求められる規範を遵守しない、自分はやっているのにどうして同じように行動しないの?という不満から来るのではないかなぁ、などなど思ったりしています。ある程度しかたが無いとは思いますが、一つのあるべき姿を示すやり方の問題点かも知れません。その規範が先生の述べる正しいお話しで、それを守らない子は罰せられても仕方がない・・・なんて感じかなぁと思います。(このあたりの話はだいぶ割ひいて読んでもらえれば)
もし、そうなのであれば、クラスでいじめが発生したような場合に、それを教師が「容認」若しくは「そう見える態度」をクラスの生徒に示したとしたら、公正さのお墨付きを与えたという事になります。これはいじめを受けている生徒に絶望を与える行為だと思います。もしそんな事があったのだとすれば、いじめられている生徒のその後の行動に大きな影響を与える事が予想されます。教師は追認若しくはそう採られても仕方の無いような態度はいじめ問題で絶対におこなってはいけないと私は考えます。


■おわりに
日常誰もが気にしないで行っているような素朴な原因推測が実はいじめの発生や悪化に影響を与えているのではないか、ということを書いてきました。自分たちにもこうした傾向がある事を認めた上で対応を考えていく事が求められるのかなぁと私は思っております。
特に結論のないまま終わりにしたいと思います。長文を読んで下さりありがとうございました。





■蛇足
ありえない別世界の出来事ではなく、誰もが陥ってしまうような皆で考えなければならない問題であると認識する事が出発点だと思います。*1

*1:いじめの発生した学校は問題のある学校だ→糾弾→隠蔽体質、となってしまいがちなのでいじめの発生はありうると前提したうえで、発生した→教員察知→学級の問題ではなく共有して解決する問題→皆で解決、が良いのかなぁなんて考えてます。