こわい

最近はこんな記事ばかりで食べ物とか栄養の話とかを期待している方、すみません。


■どらねこのコワイモノ
どらねこにはあまり「きゃ〜っだめぇ」と謂ってしまうようなコワイものがありません。もちろん、自分の身に強い危害を与えるようなものについてはコワイと思いますけど。例えば、キノコを採りに山へいったときにまさしく今したばかりのクマのフンを見かけたりすればちょっとした恐怖を感じます。これはクマのフンを怖がっているわけではなく、近くにクマのいる可能性を想像し、恐怖を持ったわけですね(あたりまえか)。なので、動物園でほやほやのクマのフンを見ても何も恐怖を感じたりしないし、檻の中のクマをみてもコワイと感じないわけです。
山の話が続きますが、深秋の夕方にみるみる周囲が暗くなるのに車を止めた場所まで距離があるときなども何とも謂えない恐怖心がじわじわとわきあがってきます。どらねこの恐怖心は危険の見積もりとそのコントロールが自分の手を離れてしまった時に強く現れるように思います。家でその時の状況を思い浮かべても大してコワイと感じませんからね。


■なぜこわいの?
どらねこはエスパーではありませんので、ヒトの感情を正確に理解することなんてできません。なので、自分だったらどう思うかと、今までの経験に照らし合わせたりして文脈や表情などから相手の感情を推し量る事になります。基本的にコワイものがあまりないので、「○○がコワイ、見るのも嫌だ、想像も無理」というような気持ちはあまりよく理解できなかったりします。そのため、身の回りの人が〜コワイといっているのを軽く見て恐怖を与えるようなヒドイ事をしてしまったこともあります。
カエルを見ただけで恐怖を感じる人がいるのですが、そういった人にカエルを近づけてはいけませんよね。子どもだとそういう同級生がいたら反応が面白くてついついけしかけてしまうなんて謂うのはありがちですが、これってやられる側からしたらとんでもない事ですよね、きっと。
大人同士であればそう謂う直接的なイヤガラセはあまり為されないと思いますが、言葉で相手の反応を愉しむと謂うのはありそうです。ていうか、どらねこやってました本当に申し訳ありません。

カエルがコワイの?えー、どこがコワイの?だってホラ人間に直接危害をあたえるわけじゃないじゃないの、空からヤドクガエルが唐突に降ってくるのならどらねこだってコワイけど。えっ、ぬめぬめの体表がなんとなくコワイし壁にくっつくなんて信じられない? えー、あのつぶらな瞳たまらないし、つるんとした体型もそそらない?

とまあ、こんな感じで相手の恐怖は不当だと暗に責めているわけです。


■わかってる
このように実際の危険性以上に特定の対象に恐怖を感じてしまう事について、実は本人も不合理を感じている場合も多いのではないでしょうか。身近な人に聞いた事があるのですが、不合理は感じているけどやっぱりコワイのだから仕方が無い!というように仰ってました。
とはいえ、そんなに簡単に割り切れるものではないでしょうから、他の人に「ホラ可愛いよ、ちゃんと見てみれば」などと不合理を責められたとしても、ぬらぬらしてキモイとか目が無表情でコワイとか理由をつけて反論をしてしまうのでしょう。不合理だなぁと思いつつも自分の感情は不当なものでは無いはずですから、正当性をアピールするためについつい理由を挙げてしまう*1わけです。


■内心
相手が怖がっている気持ちを不当と指摘するのは不毛な話なのですが、自分が理解できないものについてはついつい口を挟みたくなる気持ちは多くの方にあるものではないでしょうか。しかし、こんなものは危害を加えるわけでも無いのに外見だけで気持ち悪いコワイと謂うのは不当だ!理解できない!ちゃんと見ていないからそう謂う評価になるんだ!としつこく迫るのはやはり問題だと思います。それは人の内心に踏み込むような行為だからです。
「なんであんなヤツ好きなんだよ、オレのが断然いい男だろ?オレとつきあえ!」
そんな風に迫っている人をみたらどう思うでしょうか? どんな人を好きになろうがそんなの個人の勝手ですよね。その結果が他人に迷惑をかける事が予想される場合にはある程度の干渉もやむを得ないかも知れませんが、そうでなければ余計なお世話です。
ドラえもんにネズミをけしかけた結果、地球破壊爆弾を取り出されたら困りますよね。恐怖に駆られている人が更なる恐怖に曝露されれば過剰とも思える反応を示すことは容易に予想ができるでしょう。場合によっては攻撃性が引き出されます。まさしく窮鼠猫をかむです。


■正しさなんて無い若しくは誰もが正しい
特定の対象に恐怖を持っている人に対し、「その恐怖心は危害の見積もりからすれば不当な物ですよ正しく怖がりましょう」みたいな事をいってもしょうがありませんし、むしろ逆効果だと思います。恐怖症であるのならば精神科医などに受診し認知行動療法などを行う類いのものでしょう。
○○が怖いという気持ちと、カワイイは正義という主張は批判される類いのものではありません。そのあり方について批判されるのだとすれば、他者に押しつける場合だと思います。この場合の正義は人の数だけあるからです。
善意であっても内心に干渉するのはやっぱり良くない*2ことだとどらねこは思います。




【おまけ】


■誰に向けられているのか
実際に人的被害も予想される出来事に対する恐怖の場合はまたややこしいと思います。被害の見積もりに対し、反応が明らかに過剰であればそれは見積もりが適切ではありませんと指摘されるかも知れません。こうした指摘は淡々と為された方が良いと個人的には感じております。但し、淡々と為されたとしても指摘された側からの反論はある事でしょう。
問題を難しくしそうなのは「指摘された側」が本当に「指摘の対象」であったのかというところかもしれません。つまり、過剰に怖れていませんかと指摘される対象は「恐怖症」的なうすうす分かっているけど「恐怖を感じる」人ではなくて、危険の見積もりが明らかに過剰で、それにより必要以上に対策を行い生活に支障が出てしまうような方に対してだった筈なのに、それを見た人が別の対象に向けてのものと受け取ってしまった場合などです。
なので、「恐怖症的」な人にも言及していると判断した人は怖がる人の内心に干渉するのかという批判になるでしょう。更にこのケースでは危険性の見積もりに対する評価まで加わってくるのですから問題がややこしくなって当然と謂えるでしょう。


■とはいえ
などと書きましたが、「正しく怖がりましょう」的な事を述べた方の中には「恐怖症的」な人に対して、もしくは「感情」に対して意見を述べていた人もいたかもしれません。そうであるならば、そのような指摘は妥当なものではなく、リスコミの観点からは批判されてもしょうが無いような話だと思います。
このような事例に対するときに、こうした複雑な構造がある事を無視し、論点整理を行わないまま「アイツは謂った、いや謂わなかった」という議論が実際にあるのだとすればそれは不毛であると思います。
こうした場合でも妥当性の高い対策は「恐怖症」的な状況に陥る人を少しでも出さないように皆で協力し、対応策を考えながら問題解決に向かう事だとどらねこは思います。そのためには恐怖を煽るのが目的のようなセンセーショナルな報道をなるべく控えて欲しいとマスメディアの方には要望をしたいと思います。
これを書いていて思いだしたのですが、広島の原子力爆弾による被害を伝える貴重な資料を幼少期に目にしたのですが、そのあとしばらくは空に飛行機が飛んでいるだけで恐怖を感じた時期がありました。確かに恐ろしい出来事ですし、繰り返してはならない過去ですし、核兵器は廃絶して欲しいですが、過剰に「恐怖」や「嫌悪感」を持たせるやり方でその運動を推進して欲しくは無いと個人的には感じております。冷静に議論できないまま、妥当性のない感情論を続けて意見を異とする相手に納得して貰ったり説得する事は難しいと思うのですね。
感情を押しつけられても困りますし、押しつけてもだめですよね。お互いに相手のためだと思っているのですから余計哀しい思いをするだけでしょうから。

*1:おまけで言及している複雑さはこうした認知的不協和的な反論と合理性のあると考えての反論との区別が外野からはつきにくいことも関係している事でしょう

*2:程度問題でもありますが