EMを採用の判断ってどんなものだろう?

地方紙発だけど、ネット上で話題になった、朝日新聞の長野記者が書いた記事を読んで少し考えた事を書いてみようと思います。内容は、効果が実際にはなさそうであるEMを良い物として公的機関が無批判に奨めてしまい、その結果教育の現場でも十分な検証無く取り組みが実施されているという状況を批判したものです。


■EMが教育の現場に

朝日新聞デジタル: EM菌 「効果疑問」 検証せぬまま授業-マイタウン青森より
http://mytown.asahi.com/aomori/news.php?k_id=02000001207030003

「EM菌」という微生物を川の水質浄化に用いる環境教育が、県内の学校に広がっている。普及団体は独自理論に基づく効果を主張するが、科学的には効果を疑問視する報告が多い。県は、効果を十分検証しないまま、学校に無償提供して利用を後押ししている。あいまいな効果を「事実」と教える教育に、批判の声も上がっている。
<中略>
 県東青地域県民局は2004年から、管内の希望校にEM菌を無償で提供し、実践を支援している。提供開始にあたり、県はEM菌による浄化活動が行われている川で1年間、水質を調査。だが、顕著な改善は確認されなかったという。
<中略>
 にもかかわらず継続している理由を「学校が水質浄化に関心を持ち、活動してくれること自体が有り難いことだから」と担当課長は話す。担当部署はこれまで、EM菌の効果を科学的に検証した文献の調査などはしていない。
<中略>
 教師は、効果に疑義があると知り「生徒にはきちんと説明したい」と語る。県の担当者は「配るのは学校側の要請だから」と責任を否定している。
(長野剛)

このEMについては、「杜の里から」というブログの「EM」カテゴリで詳しくその問題が論じられておりますので、興味のある方は読んでいただければと思います。→http://blog.goo.ne.jp/osato512/c/e804043a0f625c439286660577f6b2d8

また、学校教育関連では有名なTOSSのサイトには「EM」を使用した授業例がいくつも紹介されており、学校教育の現場には此方経由からのものが多いかもしれません。→http://www.tos-land.net/?action_search=1&scc=898 
また、TOSSは水からの伝言をはじめ、親学や砂糖有害論など教育現場に妥当性の乏しい言説をいくつも広めてきたという実績があります。


■本題
ええと、話がだいぶそれてしまいました。今回の本題は、良さそうな話を受け入れるか否か、その過程の話と立場により求められる態度についてです。EMの記事を書いた長野記者はツイッターで次のように書いております。

https://twitter.com/NAGANO_Go/status/221194623282987008より

NAGANO,Tsuyoshi(長野剛)‏@NAGANO_Go
親しい県職員に「EMって、いいものだと思っていたのに、記事は意外だった」と言われました。市民団体が普通に使っているから、違和感が無かったそうで。「波動」とか「自然界の菌のリーダー」というEM側の主張は知らず「こんなこと言ってんの」とびっくり。まあ、そんなもんだろうなぁ

2012年7月6日 - 19:51webから

「みんながやっているから、良い物だと思った」、「雑誌で好意的に紹介されているから信用していた」というような判断をしてしまう事はどらねこにも良くあります。こうした判断をしてしまうのは、造詣の深くない分野であったり自分とは直接関係の無い話などに多いように思います。例えば、どらねこは「機械」には疎いので、なんだか凄そうなカタカナ語がずらりと並んだ紹介と、専門家であったり、体験談だったりの好意的な紹介に簡単にグラリときてしまったりします。基本的な性能があまりかわらないそうに見える「機械」を買う場合にはこうした意見を尊重した判断をしてしまいがちです。


■それで良いのか?
朝日のEM記事のキモは、公的機関が態度を決める場合の検証がそのようなもので良いのか?と謂う問いかけだとどらねこは勝手に思っております。答えを先に書いてしまいますと、それではイケナイとどらねこは思います。

大抵の人は、これは信用できそうだ!というお墨付きとなるようなものがあれば、それを利用して正しい情報であると判断をする傾向があります。日常、判断しなければならない事はいっぱいありますので、いちいち細かいところまで精査していては追いつきません。効率よく思考を節約することは大抵は有用な事が多いでしょう。学校の授業で先生が話していたから信用する、ちょっとした風邪に対し医者がこの薬を飲みなさいと謂ったので服用する、天気予報で雨が降るといっていたので傘を持っていく、というような判断は例え結果的に間違いとなる事があったとしても合理的なものだと謂えるでしょう。
しかし、自分の専門分野であったり、非常に重大な選択であれば、そのような「なんとなく」ではなく、「情報を吟味」しての判断の割合*1が大きくなると思います。自分の命に関わる問題であれば、「近所のうわさ」では信用しないでしょうし、「有名なセンセイの発言」であっても、その中身を読んでから判断をしようと考えたりするでしょう。

公的機関が「これは良い物ですよ」と情報を提供するようなケースは、後者の「情報を吟味」し、「精査」を行う事が求められるような事柄だと思います。この部分を怠ってしまった事が問題だと考えます。


■何が不足していたのか
もしかすると、公的な機関が情報を発信することの意味や重大性を十分に認識できていなかったのかもしれません。ですが、それだけでも無いような気もするんですね。長野さんが聞いた「市民団体が普通に使っているから、違和感が無かった」と謂う認識がヒントかもしれません。
教育現場に良い教材を提供したいと考えていたのならば、これは重要な問題であると謂う認識であったと思います。それでもなお、問題点に気がつけなかったと謂うのは、検証する必要性は理解しつつも検証の手段を持っていなかったからなのかも知れません。科学的に判断すること、と謂うのはトレーニングを積まないとなかなか身につくものではありません。EMの件については、他の自治体での運用実績や教育効果などについてはしっかりとしたリサーチはなされたのではないでしょうか。しかし、その手法では、効果があるという前提を疑うことは難しいと思います。
一つの事例を採り上げた警告も大事ですが、公共性の高い機関このような過ちを繰り返さない為には、対象分野の妥当性について検証をするトレーニングが必要になってくるんじゃないかなぁと思います。科学的に物事を検証する事については、高等教育機関でのトレーニングや、研修会への参加などを今以上にしっかり行うなどしないと、同じ事が繰り返されるでしょう。今回の記事を切っ掛けに、検証が行えるような態勢をつくる事の重要性を認識して貰えたらなぁとどらねこは思います。

*1:少し補足すると、簡便な印象など周辺情報を用いた判断と対象を精査、検証するような判断は並行して行われているもので、その比率の違いと考えていただければ良いでしょう。また、どうやって検証したら良いのか分からない人であれば、相手が優しそうであるというような情報に重み付けがなされたりしやすいでしょう