あきらかがあきらかかはつまびらかではない

※ネタ記事です。何か主張するつもりもありませんのでそのあたりもどうぞご了承下さいませ。

■この名前は読めないよ
近頃のわかいもんはぁ〜、では無いけれど、ウチのどら息子の同級生には漢字を見るだけではその名前の読みを正解できないような読ませ方をしているモノがとても多いんですね。職場の人から聞きましたが、クラスの出席簿には漢字の上に全員ルビが振ってあるとか。大変な時代になったものだなぁ、なんてヒトゴトのように唸ってみたのですが、よく考えたらウチのどら息子の名前自体が読みを正解することが困難なモノでして、まさしくブーメランだなぁ、とも思ったわけでした。
ところで、一見読みやすそうに感じるけれど、実は別の読み方だったりする名前があるのですが、そうした名前は幅広い年齢層から特に違和感なく受け入れられているように見えるのですが、実はそっちの方が厄介だったりするんじゃないかとたまに思ったりもするのです。

■そもそも
そもそも、明らかに『○○』としか読みようがない名前なんてあるのでしょうか?地名でもそうですが、どう見てもそんなふうに読めない漢字があてられている例がゴロゴロしております。おそらく『○○』と読むのだろうけど、それ以外の読みである可能性を否定できない場合がほとんどだろうと思います。
平仮名や片仮名の名前の人を除けば、名前の読みが誰の目にも明らかなと謂える事は無いのかも知れません。もしかすると名前の読み問題*1は所謂グラデーション問題として考えることが出来るのかも知れません。

■せんびきもんだい
例えば、『明』『あきら』と読むことは『誰の目*2にも明らか』と謂う主張があったとします。しかし、こんな反論も考えられる事でしょう。私の知り合いには『明』と書いて『めい』と読む人がいる。だから、『あきら』と読むのが『誰の目にも明らか』と謂う主張は極めて乱暴である。少なくともオレの目にはあきらかどうかすら明らかじゃないんだ!と怒られてしまうかも知れません。
まぁ、実際の判断に於いては、明らかにあきらだろう名前から、おそらくあきらだろう名前とあきらかもしれないがあきらではないかもしれない名前やあきらかもしれないがあきらではなさそうな名前、更には、あきらではないと思うがあきらではないといいきれない名前までいろいろ存在するワケです。そのような状況だから自分では何も判断する事は出来ないとして、全て判断保留にすると謂うのは現実的ではありません。『明』と謂う名前も『哲』と謂う名前もどちらも『あきら』と謂う読みである可能性があるし、そうでない可能性もあるから相手から直接名前の読みを確認するまでは勝手な判断で読みを予想することはもっての外である、なんて主張が馬鹿馬鹿しい事は明らかでしょう。
あきらであるかそうでないのか、明確に線を引くことはできませんが、『明』『旭』『徹』『威』の間にはあきららしさに明らかに差があることが分かると思います。グレーゾーンがあるからといって、あきららしさの区別できないと考えるのでは不都合があるわけです。現実でもフィクションでも『明』と謂う名前が何の注釈なく登場した場合には、それは『あきら』と読んでも差し支えがないと判断したとしても、その判断は責められないものと考えて良い*3でしょう。

■社会のコスト
今まではそうやって、名前の呼び方を推測してきたわけですが、冒頭で述べたように近年では確認しないと判別が難しい名前が増えてきているとされております。こうした状況が更に進めば、漢字を見て名前を推測するという作業で正解を推測することが非常に困難になってくるでしょう。予測することが困難であれば、無理に予想するよりも先ず、相手に名前を確認すると謂う作業が必要になってくるでしょう。最初に書いた出席簿にルビを振ると謂う作業がそれにあたります。予想が容易であれば必要のない作業であり、これは余計なコストを相手に強いていると考えられます。
しかし悪い点ばかりではありません。読みと漢字のバリュエーションが増えることは名前の重複が少なくなる事も意味します。年金や徴税などで同姓同名の取り違えなどがニュースになりますが、そう謂った事例が減るのでしたら、それは決して悪いことではないでしょう。もしかしたら、知り合いを装う勧誘などの予防効果もあるかもしれません。

■おわりに
相手を名前で判断せず、その人を見る事を大切にしましょう。







おまけ

■自信満々
自信満々で「○○さん」と呼びかけて、実は違う呼び方だったときなどはそのマンマン度に比例して、申し訳なさが増大します。申し訳ないとは思うのですが、それって自分が悪いのでしょうか?それでも申し訳ない気持ちになってしまうんですよね。間違えられた方も微妙な感じになるし、またか・・・と謂う顔で訂正されるとたまんない気持ちになります。間違えから話が弾むかんじに持って行ければ良いのですけどね。
ところで、何回聞いてもどっちであるのかを迷ってしまうような名前もあるわけで、それはやっぱり自分の責任かなと思います。とは謂え、どうしても間違えてしまうのは覚えにくさにも問題があるんじゃないの?と謂う事を自己正当化かも知れませんが、これはやっぱり謂いたいわけです。例えば、『幸子』と謂う名前の女性が職場にいらっしゃって、それも一人ではなくて三人いらっしゃるんです。仮に三人の『幸子』さんをそれぞれ、『Aさん』、『Bさん』、『Cさん』とすると、読み方はAさんが『さちこ』で、Bさんは『ゆきこ』、Cさんが『こうこ』なのです。初対面ではおそらく名前の読み方を正解できないであろう、Cさんの名前を呼び間違える事は無いのですが、どらねこはAさんが『さちこ』なのか『ゆきこ』かいつも分からなくなってしまうんです。これはどらねこの記憶力が悪いセイでしょうか?
このように一見難読でもないが非常に迷いやすい名前があると思うんですよ。こうした名前は昔から存在しており、その都度繊細などらねこの心を痛め続けるのです。

■変換してみた
などと書きましたが、もしかするとどらねこの感覚が一般の認識からは大きく乖離している可能性も有ることでしょう。そこで、どらねこは日本語入力の名前変換機能*4を用いて、その妥当性*5を探ることに致しました。
まずは、『こうこ』とタイプし、名前変換ボタンを押してみます。すると、『こう子』と変換されました。続いてもう一度変換ボタンを押すと、変換候補がズラズラと並びます。

こう子、コウ子、公庫、交子、公子・・・

どうみても名前じゃない漢字が三番目にでてきてしまっています。幸子を『こうこ』と読めないのはどらねこの責任ではないことがコレでハッキリ*6しました。
次に『さちこ』を名前変換してみます。

佐智子、佐知子、幸子

三番目です。

オシマイに『ゆきこ』を変換してみます。

裕記子、幸子

二番目に出てきました。この結果は『幸子』の読みが、『さちこ』と読むか『ゆきこ』と読むかは同程度に可能性が高いと考えて良いことを示すモノでは無かろうか?どらねこは勝手に*7にそう決めつける事にします。これによって、『幸子』と謂う、オーソドックスに見える名前も、イマドキの難読とされる名前に匹敵するほど混乱をもたらしうる事を皆に示すことが出来たことでしょう。そうして一仕事終えたどらねこは満足感に浸るのでした。後顧の憂いが無いと謂うのはこう謂う事を謂うのでしょうね。

*1:名前の読み問題と謂う一括りに出来る問題が存在するのかどうかすら定かではない

*2:目で見たモノは必ずしも真実であるかどうかすら保証できるものでは無いし、同じものを見ても一人一人別の物として認識される事もあるだろうから、誰の目にも明らかな事象自体が存在しない可能性もあるよね。勿論、慣用表現にそんな話は馴染まないのだけど。

*3:何か話がずれているような気がしますが気のせいでしょう。

*4:ATOKを使用、F2を押して変換すると、名前優先で変換してくれるが、単漢字検索も兼ねている。

*5:そのソフトがどれほど妥当性を担保するモノかは知らないし、ネタなので色々とスミマセン。

*6:と謂う事にしておく

*7:さっちゃんの歌もあるぐらいだから、さちこに当たりを付ける方が妥当だろうとか突っ込まないように