サイエンスコミュニケーションで自分なりに考えていること

dlitさんの【メモ:サイエンスコミュニケーションと科学者/研究者/専門家に何を求めるか問題】

に触発され、どらねこは以前【サイコミ関連メモ】という記事を書きました。その中で一応の結論として、私たちのとるべき態度は次のようなものであるのが望ましいのではないか?と謂う事を書かせて頂きました。

良いコミュニケーターを大勢抱えているメディアを評価し、応援する事が情報の受け手の責任なんじゃないだろうか。メディア側も自分たちはこんな評価検証スタイルを採っているから信頼が担保されて居るんだよ、とアピールしていく事も大切なんじゃないだろうか。お互いが役目を果たしより良い関係が作られなければ、デマや扇動などに簡単に社会資源を浪費してまう社会になってしまうと思うんだ。

同じくdlitさんのエントリに触発されたそうですが、どらねことは別の視点から書かれた、ばらこさんの記事がアップされました。

【サイエンスコミュニケーションで素人にできることを考える(改題)(2)】
更にばらこさんのエントリに返答する(?)形でTAKESANさんの記事がアップされました。
【或るトンデモ支持者の履歴−科学的懐疑主義に目覚めるまで】
これら二つのエントリに触発され、事例は多い方がよいと思い、賛同の意を込めてどらねこもばらこさんの提案にそって書かせて頂きます。

ばらこさんの示した1)〜6)の項目に対するどらねこの事例という形をとりたいと思います。長文ですので、興味ある方だけどうぞ。

■1)金を払ってでも読みたい人を発掘する
自分の関心のある分野で・・・う〜ん。栄養疫学では佐々木敏氏かな。一冊だけでも良いなら食品の安全について書かれている畝山智香子氏も。専門書については人の名前じゃなくて内容で購入するからそれ以上は出てこないかな。
どちらかと謂うと、玉石混淆のネット情報から有用な記述を掘り出していく方が楽しいんですよね。で、それを紹介するの場がソーシャルブックマークで、最近はツイッターに流れつつある感じです。

■2)自分が少しでも勉強して受信能力を上げる
どうすれば受信能力が上がるのかしら?と謂う面で一つのハードルがあるのかなぁ、なんて思ってる。ヘタな勉強しちゃうと電波の受信能力が高くなりそうだから。ヒトが物事を認識する時のクセや陥り易い誤解などについて分かりやすく書いている本から入ると良いのかなぁ、なんて思う。その点では心理学者である菊池聡氏の一般向け書籍がオススメかなぁ、と思ってる。

■3)自分が過去にトンデモな情報を信じていたプロセスをできる範囲で言語化し公開する
どちらかと謂うと、トンデモな情報をあまり信じないようなタイプだったと思います。勿論、同年代のヒトと比べれば・・・ぐらいのものですけど。
【自分の下地】
どらねこは反抗挑戦性などと謂う、厄介な特質を持っておりまして、20歳代くらいまではコレにより大いに振り回されたものです。簡単に述べますと、自分の意見に反対したり、断定的に述べられるような主張に対しては反射的に敵意を持った反応をしてしまうようなものです。これは誰にでもあるような心的傾向だとは思いますが、それのコントロールが非常につきにくいものだと思ってくれれば良いのかと思います。
幼児期から大人と議論をして、場合によっては主張の矛盾を指摘するようなカワイゲの無いクソガキでした。よく分からないのですが、これもある種の才能なんでしょうね、訓練したワケじゃないのに、一対一の遣り取りだと論理のホコロビを何故か感じてしまうんですね。だから、昔から『大人が正しいといったから』みたいな論理では信用しないような子どもでしたし、ヒトの話はまず疑ってかかるようなイヤなヤツでした。『先祖代々続いているだけなのに、それだけでどうして偉いとか崇めなきゃならないの?』とか、『いろんな神様がいるのに、どうして親が信じているだけで、その神様に祈らなきゃならないの?』とか、トコトン可愛くない事を思っていたものでした。
それでも所詮は知識に乏しい子どもです。自分の体を侵襲するような物事や潜在的な恐怖心や健康に関わるような話には過敏な反応をしていました。ありがちな学校の恐怖話なども真剣に怖がったものです。世界の怪現象なども信じたりしてまして、ケイブンシャの図解シリーズを見てウンウン唸っていたモノでした。昔からあまり寝付きの良くない子どもでしたので、夜は恐怖と闘う恐ろしい時間の1つであったのかも知れません。
美味しんぼとの出会い】
自身の命を大切に考えるどらねこでしたので、健康を脅かすような主張には過敏に反応を致しました。それが美味しんぼ信者になるエピソードにつながります。中学1年生ぐらいだったと思うのですが、当時お料理に興味を持っていたどらねこは、放映が開始されたばかりのグルメアニメ美味しんぼに嵌ってしまいました。ただ単に料理をつくるだけでなく、美味しさのメカニズムや一般に広まる誤解などを鋭く指摘する(ように見えた)指摘するスタイルにすっかり共感してしまったのです。何コレ、カッコイイ!すごく科学的じゃない。そうして、コミックスのバックナンバーを買い集める事になりました。
美味しんぼの中で特に注目したのが、食品成分と健康との関係についてでした。なかでも食品添加物や農薬が体に与える影響はマンガだけでなく、食品添加物の害を煽るような新書などにも手を出す程になりました。中学生がそんな事を気にして天然食品を買い漁ると謂うのは如何にもバカげておりますが、当時のどらねこは真剣だったのですよね。元々大人を信じていないから、政府や利益団体が隠しているみたいな主張はなぜだか正しいモノに見えてしまったのですね。今思えば、害を訴えている側を信じる証拠も無いのですけれど・・・。
この背景には自然が目に見えて壊されていく事に対する罪悪感もあるんじゃないかとも思っております。素朴な自然観や理解では、呪術的な因果応報を当たり前のように受け入れてしまうところがあると思うからです。潜在的恐怖感、助かるためには何かをしなければ、自分の健康が関わる事態については、受け入れる為のハードルは大きく下がり、おそらく中学生のどらねこはそれは本当に正しいことだと考えるに至ってしまったのでしょう。
美味しんぼとの決別】
そんなどらねこでしたが、現在はまったく逆で、化学調味料は怖いとか、現代的食生活が健康を蝕む、農薬により子どもに奇形が・・・等々の主張を批判する立場で情報を発信するようになりました。でもそれは誰かに説得されたからそうなったわけではありません。
では、どうして正反対の立場になったのでしょうか。実は急激にコロっと転換したワケではありません。どらねこは美味しんぼに憧れ、食に関連する仕事に就きたいと思い、栄養士の資格を取れる学校に入学しました。ところが、当時の栄養士の業界って現状追認的な考えをする方が多く(自分にはそう見えた)、どらねこから見ると無駄なことや整合性の無いことを真剣に議論していたりするのを色々な場面で見かけました。例えば、食品交換表と謂う、糖尿病の方が日常の食事を考える上で、参考にする書籍があるのですけれど、栄養士が交換表を使用して献立を作成すると謂うような事が当然のように行われていました。どれぐらいの意味があるのか分からない、栄養計算の結果を合わせるために、食材の分量を数グラム単位でいじくったりとか・・・。
また、調理学などでは理屈としてはオカシナ事が教科書に書かれていたり、教科書によって別の答えが書かれてあったりと、とても信用できないような事が転がっておりました。それなのに、先生は何の疑問を持たずにその事を説明するのでした。
こんなので良いのかしら?幼少期から自分とともにあった反抗挑戦性が火を噴きました。これ自体は社会生活を営む上で本当に厄介な性質ではあるのですが、相手の主張を懐疑的に捉え、問題点を究明するにあたっては大きな原動力となる特性ではありました。批判するためには対象を徹底的に調べないといけなくなります。妥当性が疑わしい栄養学的見解などを独自にしらべて行くウチに、美味しんぼなどの危険を煽る健康情報に関する知識なども自然に集まってきました。自分が調べているウチに出てきた矛盾ですので、思いのほか反発は少なかったのだと思います。そうして、いつのまにか美味しんぼの呪縛から解き放たれていたのでした。
当時を振り返って思うのは、別の人から美味しんぼの主張は間違っている、コレ読んで勉強しろみたいな事をいわれていたら相手の主張を受け入れていなかったと思います。感情的に反論し、反論を積み重ね認めるに認められない状況になってしまったかも知れません。多くのヒトの前で宣言してしまえば、その事を取り消すことはより難しくなってしまうからです。私のケースは、自分が受け入れる事のできる態勢が整った状態にある時偶然に、自分の意思で読み始めた本に丁寧な指摘が載っていたから・・・だからこそ出来たのだと思います。この項の途中までの説明は割とどうでも良いのですが、最後の『偶然であった良い本』に感謝しております。そのような本に出会えていなければ、未だ呪縛に囚われたままだったかも知れません。
【転機?】
ここまでのどらねこは単なるへそ曲がりのイヤなヤローです。今でも大して変わらないじゃんと思う方もいらっしゃると思いますが、自分では少し変わったんじゃないかな、と思ってはおります。その転機となったのが、夏井睦先生のブログでした。どちらかと謂うと、ブログそのものよりもその中で紹介されたある人物だと思います。この方の行動や、考え方や分析に使用された疫学的手法の威力などに大きな衝撃を受けたモノでした。そして、自分も何か出来ないかな、と思うようになりました。これを切っ掛けに、自分自身も何か情報を発信し、栄養関連で一般に広まる誤解を少しでもとく手伝いができれば、と思うようになりブログを始めたのだと思います。

ある人物とはゼンメルワイスというお医者さんの事です。
興味のある方はこちらを参照して下さいね
http://d.hatena.ne.jp/doramao/20100813/1281701443

【こどもの事】
子どもの発達具合がどうもおかしいな、と気がついたのがブログを始める少し前にぐらいでした。色々と調べたところ、どうやら息子は、自閉症スペクトラムと呼ばれる特性を持っているようだと分かりました。
後述するニセ科学の問題が発達障害にも入り込んで来ている事を知るのは後になりますが、当時、子どもにどのようなアプローチをするべきか悩んだときにもらったアドバイスの中には今考えると怪しいモノが多かったように思います。ネットで情報を探しつつ、書籍なども参考に勉強しましたが、どうも親の養育観だとか、食べ物や添加物に問題があるとか、何か後天的な要因に原因を求めるような言説が広く出回っていて、どうもしっくりと来ませんでした。この時違和感を持つ事ができたのは美味しんぼの経験があったからだと思います。もう一つ、大学で心理学をちょこっと勉強していたことも幸いしたと思います。その中で早いうちにそらパパ氏のブログhttp://soramame-shiki.seesaa.net/と出会えたことは幸運だったかも知れません。
ニセ科学
その頃と謂っても実は数年前なのですが、当時はニセ科学のニの字も知りませんでした。ニセ科学批判などと呼ばれる活動があるのを知ったのもその後でした。自身のブログで情報を発信するにあたり、事実関連の検証を行う上で、ネット上で情報を集めている最中に名前は忘れましたが、ニセ科学批判を行っている方の検証を参考にしたことがありました。その中のリンクなどから批判界隈のブログなどを目にするようになりました。
あ、これって自分がやっている事と似ているよね?もっと早く知りたかったなぁ。それ以来は関連するブログなどを気にして読むようになって行きました。最初の頃に、NATROMさんやFSMさんに出会えた事が幸運だったかなぁ、と思っております。
情報を自らが求めたとき、妥当なものと行きあたる確率を少しでも高くしておきたい。自分もその役割を少しでも担えたら、そんな気持ちで今現在の活動に至っております。
【自覚すること】
などと色々と書いてきましたが、体系として理解するような科学ではなく、ヒトが日常生活の中で身につけていくような科学観・自然観に寄り添うような形で示されるような情報はニセ科学や原理的にオカシナ話であってもトンデモない言説として認識されにくいんじゃないかと思います。そして、一度受け入れてしまえば他者からの働きかけだけでは取り除くことが困難なものであるとも思います。
ヒトの想いや正義感、善行・悪行にはそれに応じた報いがあると謂うような、社会通念上好ましいとされる理念がまるで科学原理の一種であるかのように科学として扱われる分野に入りこんできている事が問題であると個人的に感じております。このような問題を目の前にしたとき、この話は何についてのものなのか、(科学なのか正義の話なのか)という自覚を持つ事ができるように訓練する機会をつくる事が迂遠ではありますが、必要不可欠なんじゃないかな、と思っております。そうでないと、信じてしまう人を再生産する速度で批判が圧倒されてしまいそうだからです。
科学の手続きが必要な学問的な話や健康や命が関わる医療の話に、ヒトのあるべき姿とか、素朴な自然観であるとか、過去の因果のような呪術的側面を持つ話が入り込むべきではない(医療に於いては理論や技術の面で)のです。それをオカシナ事として認識出来る事が大切であると痛感しているところです。


■4)信頼できる書き手の情報を共有する
私の周りでは、圧倒的に菊池誠氏が信頼されてますね。それとは別に個人的に信頼している論者についてツイッターというツールで、『ps』と謂う、リストに登録(このリストに入っていない方を信頼していないワケではないです。因みに自分は入れてません)しております。その方がどのような手順で妥当性を判断*1されているのか、この点はキチンと抑えておく必要があると思います。(自閉症関連では、そらぱぱ氏やベム氏などを参考にしてます。)

■5)無茶を言わない
ヒトに対しては要求はあまりしないようにしています。説明に疑問があれば、質問はします。ブログのプロフィール欄に書かれている事を自分も実行すればヒトにそんな要求はしない筈です。

■6)積極的にだます方に加担している人、影響力のある立場にいながらデマを振りまいて改めない人については批判できればする、している人を支持する
所謂、ニセ科学批判にコミットし始めたばかりの頃は、この項目に無い、無自覚な支持者に対しても、積極的に行っていたように思います。見つけたらブックマークをつけて、【トンデモ】みたいなタグをつけ、○○がおかしいとか、これは受け入れられない、などとよく書いたモノです。当時は個人のブログであっても同様に指摘を行っていたわけなのですが、果たしてそれが望ましい結果に繋がるのか・・・と考える事も多くなりました。
前述した、自分がオカシナ言説から脱却できた状況は、自分が求めた情報に有用な手がかりがあったからです。もし、そのブログ主さんがそんな心の準備ができていないままに、つけられたブックマークコメントに辛辣なモノがあれば、外の意見を遮断し、自分たちの考えに閉じこもったままになってしまうかもしれないからです。勿論、これは私個人の意見ではあります。
最近は、社会的影響が大きいと考えられるヒトについても必要を感じるときだけ、なるべくエントリにして批判するようにしようと考えております。また、ツイッターなどで行う場合には、名指しは少なめに、行動の仕方や発言の理屈についておかしいと感じられる部分を述べるだけに留める事も良いのではないかな、と思い始めております。誰が謂ったか?よりも何を謂ったかが問題であるからです。
勿論、ニセ科学批判であっても、普通にしていれば甘くなってしまうので、自分を含め(特に自分)て批判的に見る事は常に心がけております。





以上、だらだらと自分語りをさせて頂きました。お付き合いありがとうございました。

*1:その点、どらねこは主に勘だったりする・・・。なんというか違和感スイッチが入るんだよね。何ソレ?