緊急鼎談!震災の不安とニセ科学(後編):対策や批判はこのままでよいのか?


前回までの粗筋と登場人物
どらねこ:このブログを運営する宇宙動物。冬の主食は真鱈子、春の主食は山菜、夏の主食はホヤ、秋の主食はキノコである。
黒猫亭:読むと目が痛くなる「黒猫亭日乗」の管理人で愛称はクロネコッティ。日々の日課はHDDレコーダーの録画編集と千日回峰行。美少女好きを公言しているが意外と守備範囲が広い。

むいみ:みんなが忘れた頃に更新される神出鬼没な「azure blue」の管理人で腐女子。最近はおじさんにも萌える事ができるようになりつつあります。これが大人になるっていうことなのね(絶対違う


前回のエントリでは、キノコとホヤをエサに二人を上手くおびき出したどらねこであったが、褒めて貰うという目的が達成されないままにニセ科学とその批判についての議論に入り込んでしまった。当初の目的を達成するべく、濃厚焼きホヤで挽回を図ろうとするが・・・】 



むいみ: うわ〜ん! どらちゃんのばかー、本物だかニセモノだかしらないけど、ポルチーニ茸も焼きホヤもちっとも美味しくなんかないじゃないかー! ばかー、ばかー、うそつきー!

どらねこ: ええっ! あ、あれ? そそそ、そんな筈は・・・いつも通りに作ったんだけどなぁ・・・美味しかったですよねぇ、黒猫亭さん?

黒猫亭: う、うん、オレは凄く美味いと思ったが・・・

どらねこ: そ、そうですとも! ポルチーニ茸のあのナッツのような清冽で香ばしい風味と、そんじょそこらの乾燥品では出せない生茸ならではの歯切れ良い官能的な食感も塩梅良く仕上がりましたし、パスタの茹で加減も申し分なかった筈です。それよりも、軽く炙ることで鮮烈なエッジが際立ったホヤの濃厚な磯の風味に他の何物とも形容し難い独特の複雑精妙な旨味が絡み合い渾然一体となり、一口噛むとプリッとした弾力を感じさせ乍らもその儘噛み締めれば潔くにゅるっと噛み切れてしまうあの歯応え、喉をするするっと滑り落ちていく喉越しが実に以てこの・・・じゅるるるるっ

むいみ: うわ〜ん! 想い出させるなよお〜、どらちゃんのばかやろ〜! ぼくはなんだかわかんない臭いとかなんだかわかんない味のするものがいちばんきらいなんだよお〜、固いんだか柔らかいんだかわかんないものもだいきらいなんだよお〜! かえせもどせ〜、アレを食う前のぼくをもどせよお〜!

黒猫亭: な・・・何だこの手に負えない幼児退行は・・・流石は実力行使で実家の冷蔵庫からマヨネーズとマーガリンを完全排除した女*1、喰い物の好き嫌いが半端ないレベルだ・・・

どらねこ: あ、そうそう、それじゃむいみさん、お料理のほうがお気に召さなかったようでしたら、騙されたと思って一口そこのお水を口に含んでご覧なさい、にゅふふふ・・・

むいみ: もーどらちゃんにはだまされないぞー! だまされないけど気持ち悪いから言われなくても水くらい飲むぞー! 文句あっかよー!・・・あ、あれれ? なんかこの水、ちょっと甘くね? うん、甘いよ、甘い甘い。

どらねこ: どうです、美味しいでしょう? ホヤはそれ自体微かな甘味を帯びて居て窮めて美味なる食材なのですが、その直後に水を飲むとさわやかな甘さが口の中に広がる*2のです。多分それはホヤの波動が水に転写・・・いや、気が動転する剰りに非ぬ事を口走ってしまいましたが、ホヤを食べる楽しみはホヤそれ自体だけではないのですよ、どうですかお客さん!

むいみ: 美味しいなー、これ美味しいよー、どらちゃんありがとー! そうだ、いいこと思いついた。今度こっちに来るときはさー、ホヤはいらないからこの水だけ出してよー、すっごくいいアイディアだと思うけどなー。

黒猫亭: えっ

どらねこ: えっ





■言葉は通じてこそだよね?

どらねこ: ええと、先程はニセ科学を取り巻く社会状況についてお話をしてきましたけど、じゃあ今度は、その現状を踏まえて、今のニセ科学批判自体はどうなんだろう、と謂う辺りについてお話を伺いましょうか。

黒猫亭: 一言で言うと、今までとあんまり変わってないよね。それが多分問題の核心なんだろうけど。

どらねこ: これまでは、ネットの狭い一画とは謂え、様々な議論を経て或る程度有効な批判の方法論や作法などが纏め上げられてきたと思うんですね。菊池さんを中心に、経験を積んだ幾人かの論者が纏めを作り上げ、ブログのコメント欄でのやりとりの作法とかも含めて、最近ではその蓄積も一段落していたように思うんですよ。

黒猫亭: ネットの集合知を何処かに蓄積していこうと謂う動きは弛みなく続いていたよね。そのURLを示せば大概のFAQに対応出来ると謂うツールとかね。「集合知を研鑽し蓄積し利用する」と謂うのはニセ科学批判の言論の大きな特徴だったと思うよ。その流れで今も同じ方法論が継続されているのだと思う。

むいみ: そうね、今までの「ニセ科学批判」って初心者に対しては「Q&Aがあるので読んでください」とやってた気がする。でも、その「集合知を見てください」という手法は、震災以降は使えなくなってしまってると思うんだよね。

黒猫亭: 理由としては幾つか考えられるが、最大の理由はニセ科学の受け容れられ方とそのパイの規模が、震災前後でドラスティックに変わったことだろうか。たとえば震災以前は、ニセ科学と謂うのは趣味の延長上で入っていくものが多かったわけだし、元々ニセ科学なりスピリチュアリズムなりに親和性の高い一部の人々がハマるものだったと思う。

むいみ: そうそう。それが震災以後は、放射性物質汚染に対する恐怖やストレスというものすごく圧力の高い力が、ごくふつうの人々をニセ科学の方向へ強力に押しやってる。

黒猫亭: 今みたいな状況では普通は冷静でいられないし、不安な人々の主観的現実のうえでは死活問題だろう。それが国民の大多数と謂うことになれば、そう謂うマッスに対してネットの短く狭いリーチで「集合知を見てください」とやっても今まで以上に効果がないのは当然だろうな。

どらねこ: そのくらい間口が広くなってくると、ニセ科学批判で使われる科学的な専門用語の難解さも理解の妨げになっているのかも知れませんね。本来は科学的な正しさを大事にしたいと謂う理由なんでしょうけれど、その正しさに拘る剰りに、必要以上に用語や定義の正しさを要求する批判者も居るのかも知れません。

むいみ: いや、でも対話をするうえで前提となる用語や定義をすり合わせることはとっても大事だよ。その前提が食い違うことで対話がかみ合わなくなることはよくあるから。

どらねこ: 私もそう思います。ただ、既に用語や定義を熟知している批判者は大きなアドバンテージを持っていると思うんですよね。そうすると双方で立場の非対称性が有るわけですから、指摘される側は相手に完全にコントロールされたような気持ちになる様な気がします。そうなると、本来訴えたかった意見を封じられた様な気持ちになるのかな、と思います。

むいみ: そうね、そもそも科学的な議論に必要な素養となる用語や定義を学習してない立場の人は、科学についての議論では完全にアウェー感があるのは当然だし、それを「ずるい」「公平じゃない」って思う気持ちはあるのかもしれない。

黒猫亭: 科学的な正しさってたしかに大事なんだけどね、要は情報に求められる厳密さのレベルってあるわけじゃん。このレベルの話をするのに、そのレベルの厳密性は必要ない、とかさ。要はタームってお互いの認識を摺り合わせる方便に過ぎないんだから、極端な話、その場面で求められる精度で相手と自分の間で話が通じればそれで用が足りるわけ。

どらねこ: 「専門用語」は、その名の通り専門家同士の議論でこそ効果を発揮するモノですよね。でも、科学的知見の客観的な正しさはその種の厳密性に依拠しているわけですから、ニセ科学の言説や理論を批判する場面では、ギャラリーに向けた情報発信の意味でも、やっぱり科学的な厳密性が必要なこともあるでしょうね。

むいみ: 「ニセ科学批判」ではしばしばその専門用語が注釈なしで出てくる場面があるよね。科学的な正確さを担保する用語・定義の厳密さと、科学的な専門訓練を積んでない人々との対話で必要十分な精度の見きわめ、そのバランスがむずかしいよね。

黒猫亭: そこはニセ科学批判の先人たちが常に悩まされてきた問題で、一朝一夕に「これが答えだ!」と謂う究極の解法なんかない部分だよな。特定の対話の場面で特定の相手との間合いを常に測っていくしかないから、個々の論者の判断力や対話スキル、それと対話相手の属性と謂う一回性の強い要件に投げ返されてしまうところだな。





ニセ科学批判の中には変わるべきところもある?

むいみ: たとえば「科学的に正しい理解に至らないと、また別のニセ科学に引っかかるから、平易に説明しちゃダメだ」みたいな意見もあるよね。

黒猫亭: オレはそれは欲張りすぎだと思うよ。たしかにニセ科学批判には啓蒙乃至啓発的な役割が期待されているけど、それは飽くまで自由意志で情報を受け容れようとする人々が対象でさ。そう謂う気になってもらおうと努力するところまでは必要だろうけど、現実にはそうでない人のほうが多いわけだよね。そう謂う相手に対して「教育の押し売り」みたいなことまですべきなのかと謂えば、オレは違うと思う。

むいみ:そうだなあ。ぼくもそういう態度の人がどんなに正しいことを言ってても聞こうかなと思わないと思う。科学的な訓練を積むのには、かなり長期間にわたって大きなコストを払う必要があるわけでしょ。今大人の社会人が「これが必要なんですよ」って言われたからといって、すぐにそんなコストが払えるかといったら絶対無理だもん。

黒猫亭: 普通の大人の社会人は教育や訓練に充てられる時間が限られているんだよ。教育期間を経て一旦社会に出てしまったら、普通の社会生活を送ることにほぼすべてのコストを要求されちゃうわけだよね。遊んでる時間だって、社会生活の息抜きと謂う側面があるんだから、その余暇を勉強に充てるべきだと主張するほうがそもそも無理筋だよ。

むいみ: うん。大人でも仕事とは関係ない勉強を熱心にしてる人はたしかにたくさんいるんだけど、それは受験勉強とは違ってうるさく成果を問われない自由な勉強がおもしろいからだろうし、そもそもおもしろいと思う内容って人によって偏りがあるし、強制じゃないから習熟度もバラバラだったりすると思うんだよね。

黒猫亭: ニセ科学批判は「負け戦」とか「もぐら叩き」に喩えられることが多いんだけど、それは受け容れるべき大前提だと思うんだ。たしかにその場で納得させてもまた次に何かに引っ懸かる人は多いんだろうけど、それはその都度対処していくしかない。赤の他人様を無理矢理教育することなんて出来ないし、そんなことに大義もない。少なくとも個別の対話の場面ではね。

むいみ: 「勉強すべきだ」って言ってる人の主張って、勉強する時間的余裕がなかったり苦手だったりする人のことを最初から切り捨ててるよね。単にそれは「このくらいのことがわからないのはダメだ」という価値観を主張してるだけにすぎないような気がする。

どらねこ: 少し話を戻して用語や定義の問題との関連で言いますと、たとえばニセ科学問題については、ニセ科学批判の集合知の蓄積が学問として確立しているわけでもないにもかかわらず、「これがニセ科学の定義だ」とか語られているように思います。でも、そんなのは知らないヒトから見れば知ったこっちゃ無いわけですよね。

黒猫亭: そこもやっぱり、量的な問題が質的な問題に転換している部分だろうな。「ニセ科学問題」が社会の極一部分の問題でしかなかった頃には、現実の社会の一部を「問題領域」と謂う概念的な切り取り方で囲い込むことが出来たから、その「問題領域」の内部で通用するタームを拡げていこう、と謂う戦略があり得たんだろうね。

むいみ: やっぱり震災前のニセ科学問題って、ある種限られた人が対象となる問題だったんだよね。その規模でなら成立するけど規模が変わると向かない戦略というのは当然ある。

黒猫亭: そうそう。今は日本の一般社会の至るところで、極日常的にニセ科学が人々の生活を浸食してきている。「問題領域」と謂う限定的な括りで囲い込んで考えることが難しくなってきて、全体的な社会一般を相手にする必要が出てくると、ネットの集合知である「ニセ科学」の定義のようなローカル概念が通用しにくくなってくる。

どらねこ: そう謂う風に、ニセ科学問題や社会の状況が激変しているにもかわらず、批判者の側は従来通りの批判手法で良いのか、と謂う辺りに問題の核心があると謂うことですね。私などはこの間ツイッターで「ニセ科学批判サヨナラ!」と、感情的な事を口走ってしまいましたが、実のところニセ科学批判の存在を知った当初から、ニセ科学批判に対し、ある種の批判的な意識があったんです。で、実際そのような記事*3は何本か書いてます。

黒猫亭: ああ、そう言ってたね。でも、最初はどらちゃん流の腹黒い冗談*4かと思っていたよ。従来の感覚だと、「ニセ科学批判者」は社会的な問題に直接コミットして批判している人々で、「ニセ科学批判批判者」は批判者のネット言論に対するメタ批判「だけ」する人と謂うイメージだったわけだし、その意味で「批判偶数組」なんて言い方もあるよね。

むいみ: ぼくは気づいたら「ニセ科学批判批判」と呼ばれるものがあったなあ、という感じ。実際に以前はダメな「批判批判」もあったしね。メタ批判や印象論ばかりだったし、ぼくもそのころは「批判批判は有意義な言論じゃないなー」と思ってた。

黒猫亭: ただ、随分早いうちから「有意義なニセ科学批判批判ニセ科学批判者からしか出ない」と謂う結論が採択されていたようにも思うけど。ニセ科学問題と謂う社会問題が現に存在して、それに対抗しなければならないと謂う目的意識を共有していない限り、「そんなことしても無駄だ」とか「上から目線乙」みたいな役に立たない批判批判しか出ないと謂うことで。

どらねこ: 私が「ニセ科学批判批判」と謂っているのも内部の相互批判的な意味をイメージしていますね。ニセ科学問題についての問題意識は共有しているんですが、その方法論を相互批判で鍛えていかなければ、と思うんです。

むいみ: そうね、「ニセ科学批判」の問題点の一つは、「ニセ科学批判」の中でのフィードバックの機能が著しく弱いことだと思うんだよね。具体的にいうと「内部での相互批判がない」「批判されても自分たちに都合のよい解釈がなされることがある」ということが気になってる。

どらねこ: 実は、ニセ科学批判と括られる事自体に問題があるんじゃないかと思っていたんですね。所謂メタ視点のニセ科学批判批判では必ず「ニセ科学批判者は」と括られて論じられているんですよね。「批判者」とされるのは、ニセ科学を推奨する側からの視点だと思うんですが、批判する側が一般の方に接する場合は批判を意図していないと思うんです。それでも「批判者」として認識されているような気がするんですよ。

むいみ: それはニセ科学とは関係のない方とお話するときでも「批判者」然としてるということ? 「科学的に間違ったことを言うと承知しねーぜ」的なイメージで見られてるということかな?

どらねこ: モヒカン*5的イメージは有るかもしれませんね。受け取る相手はその延長線上に捉えている事も有ると思います。もしかすると「そう謂う事を言う奴が現れるかも知れないよ」というアドバイスを事前に受けている方も居るのかも知れないですね。非難するつもりがなくても「批判*6」と謂う括りで見られてしまうこと自体が問題なんじゃないかな、と。





■それは叩かないとダメなの?

どらねこ: それには、たとえばニセ科学批判は提唱者や推進者の言説に対してのみ行われる類のもので有る筈なのに、ツイッターなどのネットのコミュニケーションツールの台頭で、批判者とニセ科学のエンドユーザーとの接点が大きくなった事が色々と問題を起こしている気がするんですね。

黒猫亭: ネット参入の敷居が低くなっていると謂われて久しいけど、少し前までは「HPやブログを開設してニセ科学言説を発信する」と謂うところで一つハードルがあったはずだよね。今はそれがさらにもう一段低くなっていて、ケータイからでもツイッターアカウントを取得出来る。たしか三月の時点でおおよそ一七〇〇万人とか謂うレベルだし、ツイッターは自分でもつまんないと思うような話でも抵抗なく書き込めるから、ブログなんかより遙かにアクティブユーザー率は高いんじゃないかな。

どらねこ: 以前なら、ニセ科学などをネットで発信している人たちは、ニセ科学を正しいと誤解をしてしまっている人たち全体の一部でしたから、それらのネット言論に対抗することで全体にメッセージを届ける、と謂う構造がイメージされていたと思うんです。少なくともその限りでは「総叩き」の印象は薄くて、「情報発信者」と謂う特別な立場を想定することができました。しかし、今はその「一部」の割合がかなり大きくなっていて、情報を受け取る側と発信する側の垣根がより一層低くなっているのだと思います。

黒猫亭: 以前のブログブームの際に謂われていたことがツイッターの登場でさらに加速したわけだな。ネット参入の敷居がもっと下がれば、ニセ科学批判はどんどん「手当たり次第に総叩き」の性格を帯びてくる。「情報発信者」と謂う立場の特殊性がどんどん薄れてきているんだな。

どらねこ: ネット参入のハードルが高い時期であれば、一般人がネットの世界に入って来たと謂う形ですから、ネット固有の事情を考慮して発言すべきだと謂う話になりますが、ハードルが低くなれば逆に一般社会にネット社会が呑み込まれたような性格になってくるのだと思います。そこで一般社会と同様の軋轢が起こっている状況が今なのかな、と。

黒猫亭: たしかに情報発信者の立場である以上は、有害な言説を批判されるのはしょうがないと思うんだ。ただ、直接対話で「手当たり次第に総叩き」と謂うのはイメージ戦略上も具体的なリソース配分の観点からも愚策だろうと思う。それらの情報に対抗する場合には、発信者と直接対話しなければならない理由はないんだし、対抗言論で十分な場合のほうが多いだろうね。

むいみ: ある人の発言を批判するのに必ずしもその人とお話をする必要はないと思うのですよ。だって、そもそも「ニセ科学批判」って誰かと対話をするのはメインの活動じゃなかった気がするし。

どらねこ: そうですね。最初はあくまで言説批判だった筈です。頑なな信奉者は基本的に説得は出来ないし、直接対話に持ち込む必要は必ずしもないと思います。現状のツイッターでは、たとえば単独ツイートやRT言及が対抗言論に当たる発言テクニックだと思うんです。

黒猫亭: つまり、直接対話と対抗言論のクベツが附いてない人が一定数いるんだろうね。直接対話は特定個人との私的で現実的な関係性の性格がどうしても附随する。だから、言説批判がしたいだけなら、別段直接対話でないといけない理由なんかないんだよな。

むいみ: ぼくには、どうも批判者のほうも精神的な余裕がないように見えてしかたがないんだよね。

黒猫亭: 自然科学の知見って正否がガチガチにハッキリしているから、正しいほうに乗るとまず論戦で負けない。間違っているほうはそれでも主張を取り下げないし、自分の意見の正当性を訴え続けるためにかなり苦しい言い分に終始するから、さらにその不誠実な議論姿勢が批判の対象になる。それが非常に紋切型の人格攻撃に直結する場合も度々あるんじゃないかな。

むいみ: 逆に考えれば、正しくて負けないのだから、その分余裕をもって接することができそうな気がするんだけどね。それで最近いちばん気になってるのは「ニセ科学批判」の目的ってなんなのかな?ってこと。

黒猫亭: そうね。みんなは何が目的で批判してるんだろう。一部で「対話しても結局何も伝わらない」って主張する人がいるけど、だったら、何も伝わらないとわかっているのになんで対話なんかしたいんだろう。

むいみ: ええとだから、間違いを間違いだと指摘したいんだろうね。それとか、有害な情報発信にともなう責任を追及したいという動機もあるのかも。

黒猫亭: なんで間違いを間違いと指摘したいんだろうな? 寡聞にして「間違いを指摘するのは当たり前のこと」以上の理由って聞いたことがない。そこで思考停止しているからわからないんじゃないのかね。

どらねこ: 「間違いを間違いと指摘できる世の中が正しい」と謂う信念をお持ちの方も多いんだと思います。科学の領域ではそれが当然ですから。でも、人間や社会はいきなり変わるものではありませんから、一般社会がその方向に変わっていくとしても、間違いを指摘する場合のソーシャルスキルのようなものが要求されると思います。

黒猫亭: 「それが正しいんだから聞くべきだ」と謂う料簡で何ら配慮もなくズケズケ物を言って話が通じるなんて、そんな簡単な話はないよ。科学の領域と謂うのは人間にとって窮めて異質で特殊なのだから、科学の流儀が人間社会で採用されることなど、人間が人間である限り金輪際あり得ない話だよな。

むいみ: そもそも、だれかと言葉を交わすこと自体がコミュニケーションなのだから、相手に最低限の敬意を払うべきだよね。それってリアルの社会では当たり前なのではないの?たとえばこれは「相手のパーソナルスペースに土足で上がり込むような行為」を想定して言うんだけど、そんなことはネットだからといって許されるもんじゃないよね。

どらねこ:ええ。増してやツイッターのような爆発的な規模で一般に普及した媒体で、ネットローカルなルールが通用するものではないでしょう。月並みな言い方ですが、それはもう現実の社会と同じルールで動いている場所に当たるのだと思います。

むいみ: なにも直接対話を行わなくてもニセ科学のコアの人に対する言論での批判は可能だと思うんだけどな。むしろ、コミュニケーションが苦手ならそちらに特化すればいいと思う。「説得ができない」「説得は考えていない」と言うんだったら、直接に対話を試みるよりも第三者に対して「これは間違いなのですよ、実は・・・」とやるのがいいように思う。




ニセ科学批判は日本中を敵に回すの?

どらねこ: 優先順位問題が論じられる場合、時にはニセ科学批判が「趣味的活動」と見做される事も有りますよね。そうなると「お前らの趣味になんか付き合っていられるか、余計なお世話だ」と思われる事も多いですよね。「優先順位は個人の問題意識が基準だ」が行き過ぎちゃう事もあると思います。自分の問題意識が社会と共有されているかとか、多くの人々にとって本当に大事な事なのかとかは、自分が決められるものじゃ無くて客観的に決まってくる事柄ですよね。

黒猫亭: そう謂う場合に重要になってくるのは、やはりその言論の公益性なんだよね。公益なんかどうでもいいと謂う話なら、「それはキミ個人の趣味だから他人に迷惑かけんなよ」と謂う話になる。

むいみ: ちょっと話が飛ぶけど、たとえばアサイさんのブログなんか、アサイさん個人が注目を浴びるような奇抜なパフォーマンスを演じて客寄せすることで、間口を広くしてるところはあるよね。森ガールや川ガールに扮して女装するとか、カエルの卵に黒蜜かけて食べちゃうとか、もうはっきり言って飛び道具のレベル(笑)。でも、ぼくはアサイさんという人はだいぶ以前から知ってたのだけれど、興味をもったのは「もし森」の記事を読んでから。おもしろいことだけやってる人なのかと思ったら、熊出没とドングリ撒きについての記事を書いててびっくりした覚えがある。本人にとっては「両方大事」なんだろうけどね。ネタが目当てでも人がたくさん寄ってくるなら、その中から「この人の話を聞いてみたい」という姿勢の人も出てくるし、そこで初めて直接対話に持ち込むとか、そういう戦略もアリだよね。

黒猫亭: オレはお喋り以外の飛び道具を持っていないから羨ましいが、あれは富山の薬売りが風船配ったり手品したりするようなもんだよな(笑)*7

むいみ: それとは反対に、言論を届けるにあたってわざわざ間口を狭めるような行為をしてる人もいるなあとぼくは感じてる。「ニセ科学批判」ってそもそもがかなりニッチな活動なのに、その入り口まで狭めてどうするんだろう?と率直に疑問に思うんだよね。

黒猫亭: それは個人の勝手だと言われると、じゃああんたとオレとは目的が違うし利害が対立しているね、と謂う話になるんだよな。で、その「個人の勝手」と謂うのも、他人にキチンと説明可能な公益がないのなら、個人の利己的目的とか愚行権の範疇の問題になるのだよな。あんたの趣味的愚行のお陰で公益が損なわれるじゃん、と謂う話になる。自分一個人の利益だけではなく、社会に還元可能な利益があることは重要だろう。

むいみ: ふむ。「ニセ科学批判」ではなくて「社会への還元」が大事ってことなのね。そっちのほうがいっそわかりやすいかも。「おれがやりたいからやってるだけで他人から制限されるいわれはない」が成り立つためには「他人に迷惑をかけていない」という条件が必要になるんじゃないかな。


黒猫亭: 「その批判のやり方は、あんたにとっては意味があるかもしれないが、誰にとっても意味がないし、ぶっちゃけ迷惑だ」と謂うやり方があるわけだろう。で、「目的は正しいのだから何が悪い」と言うなら、じゃあ善意は結果を免責するのかと謂う話になる。そこは最終的に目的性の違いに戻ってくるのだろうなぁ。同じ目的性を踏まえているなら、公益に資することなく間口を狭めるような行為をやっていて反省がないと謂うことは考えられない。

むいみ: 目的がわからないと、その戦略が合ってるかどうかも判断できないなあ。ぼくとしては「ニセ科学批判」をしてるつもりはないのだけど、結果的に「ニセ科学批判」に類することをやることもあって、そういうときに「ニセ科学批判ってこわいからやだ」って思われて、エントリを見る前に避けられるのはいやだなあと思ってる。

どらねこ: むいみさんのブログの方向性だと、間違ったことを言っている人を批判したり攻撃すると謂う趣旨のものではないですよね。

むいみ: ぼくはどちらかというと「ニセ科学にハマる人」にチャンネルを合わせてないんだよね。もっと広く「ある話題で不安に思ってる人向け」で書いてる場合が多い。結果的にニセ科学と呼ばれるものに踏み込むことはあるかもしれないんだけど、目的はそうじゃないんだよね。ある話題に対するカウンター情報を提供してるので、ある意味では「批判」なんだけど、主な目的は「情報を伝えること」にある。

黒猫亭: オレは「ニセ科学批判」と謂うのは基本的に「ニセ科学問題への言論を通じた対処」くらいの意味に広く捉えているから、むいみんの方向性も十分に「ニセ科学批判」だと思っていた。だから「ニセ科学批判はしていない」と言われても最初はピンと来なかったな。

むいみ: そもそもぼく、だれかに寄りかかられるのがきらいなのだよね。というより、必要以上に責任を背負うことはできないというか。だから批判よりも情報発信のほうに重点がかかる。たとえば、震災以降にそこそこうまくいったかなと思う例は、まあ、継続的にやってるわけじゃないからこれを挙げるのは不適当かもしれないんだけど・・・農産物の産地表示のエントリは結構ニーズに合ったものを流せたと自負してる。

どらねこ: そうですね、あれは所謂「ニセ科学批判」では主流のテーマではないですけど、一般のニーズは強いものでした。

むいみ: ある日突然、「農水省が野菜の産地隠しを奨励してる」という話がツイッター内で駆け巡ったのよね。ぼくはJAS法に基づく産地表示について知ってたのですぐにおかしいことに気づいてエントリを書いたんです。詳細はブログの方を見てもらうとして、そのときぼくが注目したのはツイッター内での情報の広がり方かな。こまめにチェックして、新しくブログ記事を書いた人にぼくのエントリを読んでもらったり、たくさんRTされてる人に「それは誤解だから」と読んでもらったり。結局、情報元のブログを書いた人にも届いて訂正してもらえて、けっこう速やかに鎮火できた。もちろんぼく一人の力ではないのだけど、要所要所で引用してもらえるようなエントリが書けてよかったな、とは思った。そのときに、間口を狭めないためにタイトルだけでは中身が判断できないようにしたり、最初のほうに結論をもってきて、最後まで読まなくても「誤読されないように」したんだよね。あとは、リンクが多いのがぼくの記事の特徴かも。とにかく検証できる情報を提示することが大事だと思ってる。

どらねこ: そう謂う風に、適切な情報発信で人々の自発的な気づきを促すと謂う戦略は効果的だと思うんですよ。前にも言いましたけど、誤っているかどうかはともかく、情報を発信したり自分で調べたりしている人は意識が高いですね。ですから、そのような人に理解してもらう事ってとても重要だと思うのです。そんな人が思い違いに気がついたら、良き理解者になってくれる可能性が高いのですけどね。

むいみ: そうだね。ツイッターでの議論なんか見てても、「正しいことであればどちらでも受け容れる」という中立的な姿勢の人は意外に多いと思う。それをモヒカン的な厳しさで批判してまわって議論を見てる人まで敵に回すのなら、日本中が「ニセ科学批判」の敵になっちゃうのは当たり前だよ。





■みんな幸せなほうがいいじゃん?

黒猫亭: でも、ホントにモヒカン的な動機でニセ科学批判にコミットしている論者ってそんなに多いのかな。オレはそう謂うふうには思っていないんだけど。実際には「ニセ科学批判者」と見られている人の多くは、一種の利他心や親切心で行動していることのほうが多いと思うけどな。

むいみ: ぼくも少数の声の大きい人がクロースアップされてるのじゃないかな、と思っている。それが主流派なのかはぼくにはちょっとわからないけど。

黒猫亭: 誰かを助けたいとか、誰かの役に立ちたいから批判していると謂う人のほうが多いはずだ、と謂うのがオレの信念だな。批判がしたいから批判をすると謂うふうに自己目的化している論者は、少なくとも菊池さん経由でニセ科学批判にコミットしている人では少数派だと思うなぁ。

むいみ: ぼく自身はたぶんかなり利己的に考えて行動してるよ。自分がよりよく暮らすためにはみんなが幸せなほうがよくて、だから利他的に行動したほうがぼくも幸せになれると考えてる感じ。

黒猫亭: 自分がよりよく暮らすためにはみんながシアワセなほうがいい。これは効率の観点の問題だよね。例のエントリでも社会的な効率性についての言及があったけど。青臭い考え方で謂えば、利他心と謂うのは結局利己心と表裏一体のものにすぎないけど、それはそう謂うものなのだし、他人様の役に立つのならそれでいいのだと思うんだよ。

どらねこ: ニンゲンらしさって二通りあると思うんですよね。生得的に持つ感情というか感覚と、後天的に身につける知識とか。科学リテラシーなんかもその一つなのですが、それは前者の感覚を満たす為にこそ用いられるモノだと思うんです。だから、みんなのシアワセを考えるにあたって、二通りのニンゲンらしさが大事なんじゃないかな?と思うんです。自分のシアワセを願う事と集団のシアワセを願う事とイコールになるように・・・。

むいみ: ちょっと思ったんだけどさ、たとえば今は「ニセ科学批判」についてもニセ科学あるいは「ニセ科学批判批判」との対立の構図があって、そういう対立構造を前にしたときに、人々が味方するのは「より共感できるほう」ではないかなって思う。だから、二項対立の構図そのものを崩さないとダメなんだろうとぼくは思ってる。

どらねこ: どうもネットでは依然として「科学リテラシーの高いモヒカン対人間的な論理で動くムラビト」みたいな対立構造があるように見えるんですけど、それは本来対立すべき事柄ではないですよね。どっちが正しくてどっちが間違っていると謂う問題じゃない筈だと思います。

黒猫亭: 対立構造と謂う意味では、たとえばオレは少し前に「ニセ科学批判でも戦略・戦術が重要だ」と言ったら「ニセ科学批判は戦争じゃない」と言われて心底ビックリしたのだけど、これって普通のビジネス用語だよね。何らかの社会的活動をする場合の戦略・戦術の考え方って、一般社会では物凄く当たり前なんだけど、それが通じない人が結構いたりする。

むいみ: 一般社会でごくふつうに流通してる用語や概念を全然理解しようとしないのでは、圧倒的な多数派である一般社会のほうが科学的な専門用語を理解しようとしなくてもしかたないよね。

どらねこ: 結局それが「どちらかが正しくてどちらかが間違っている」的な対立構造の現れなのかもしれませんね。私も黒猫亭さんがさっき言ったように科学的な流儀が一般社会で主流になるとは考えていませんし、勿論科学的な領域で一般社会の流儀が主流になることもないでしょう。

黒猫亭: それらは本来別々の事柄なんだから、その両者の接点となる科学コミュニケーションやニセ科学批判では、相互の流儀を適切に勘案することでしか有効な情報発信は出来ない、そんなところが一応の結論かな。じゃあ、こんなところで対談を〆ましょうかね。

むいみ: あ、これで終わりなの? 長かったなー、ぼく、マジメな話なんか日頃しないから、なんだか疲れちゃったよー・・・あっ、そうだ、ぼく今急におなかがすいてきたから、どらちゃんなにかつくってよー。

黒猫亭: えっ

どらねこ: えっ

むいみ: おなかすいたぞー、はらへったぞー、早く早くー! どらちゃんのぐずー! とっとと台所に行けよー! カレー食わせろー!


(わがままなお嬢様の罵倒が響く中、対談は終わる・・・)

*1:むいみさんはご幼少の水限り、大嫌いなマヨネーズとマーガリンを実家の冷蔵庫から完全に排除することを雄弁に主張して、ご家族に認めさせたことがあるそうです。流石はフジョシですね。

*2:ホヤは嫌いだが、その後に飲む水の美味しさを愉しみたいが為に、嫌々ホヤを食べる人が居ると謂うが・・・。

*3:批判批判としては相手にされなかったですけど。

*4:どらねこには、時々こっそりダブルミーニングの腹黒い冗談や地口を言って、元の文脈をご存じない方を惑わせてしまうと謂うイケナイ癖があります。ごめんなさいモフ。

*5:ガチンコの殺伐議論を愛する人々を指すネット用語。某世紀末救世主伝説アニメに登場するモヒカンヘアの雑魚キャラから、平和なムラビトに「ヒャッハー」と謂う奇声を挙げつつ襲い掛かる様子を指している様。

*6:どちらかと謂うと非難的な意味合いの批判。

*7:富山売薬の行商人は、一般家庭に薬箱を預けておいて使った薬の分だけ後で料金を徴収すると謂う「先用後利」のシステムで有名です。訪問先の家庭の子供に紙風船やゴム風船を配ったり簡単な手品を見せたりする習慣があったようだ。