もにょもにょ

色々と頭の中で渦巻いている事をダラダラと書き連ねてみます。こうあるべきみたいなべきべきした話じゃありませんという事は強調しておきます。基本、アタマの整理的なモノなので、タイトルもこんな感じです。

■大学で初等・中等レベルの基礎的な教育をする事について
初等・中等教育で学んだ筈の内容の再教育が正規カリキュラムで行われている事について、一部で話題となっているのを見ての感想です。まず最初に1年前に書いたこの記事を思い出した。久しぶりに読んでみたら、今回の書き出しと似たような書き方をしていて笑ってしまいました。こうだ!という正しさなんて無い話だから当然なのかも知れないなぁ。

所謂学力低下について思ったことなどhttp://d.hatena.ne.jp/doramao/20100331/1270001720 

おそらく周回遅れの話で、今更感アリアリなのだと思いますが、いろいろ考えてしまったので頭の中でグルグルしていることなどを書き連ねてみる。

その時に書いたことだけど、毎年生まれる子どもの数は減り続けていると謂うのに、4年制大学の入学者が60万人を超えるワケだから、高校生の成績分布が以前と同じであれば起こりうる問題として認識されて当然の事に見えるのね。
ところで規制緩和などで大学の定員数が増えたところで、希望する人がいなければ、大学入学者数は増えなかったワケですが、実際には増え続けたワケですよ。色々な理由があると思いますが、親がやっぱり大学に行って欲しいと願う事や、高校卒業で仕事を見つけるのが大変だから、とか大学の勧誘が上手だった事などが影響しているんじゃないかと考えたりします。
この状況が不味いのかそうで無いのか、それすらどらねこにはわかりません。でも、学びたい気持ちがあれば誰だって学べる機会をつくると謂うのはそれはとても大切な事のようにも思えます。ただ、大学という名を冠して、卒業に際しては学士という称号を授与するわけですから、ある一定以上のレベルを保つ為には義務教育レベルを一から学ばなきゃならないような子を入学させるような質の大学で学んだ者が、優秀な(とされる)大学で学んだと同じ大学卒業者として取り扱われるのはおかしいなんて意見もあるかもしれないよね。だけど、世間からの評価って流動的なモノなんだよね。昔は女性が女学校卒業すればスゲー、お嬢様みたいな時もあったように周囲のヒトは謂ってるのよ。でも、今は違うでしょ?俺が苦労して大学卒業したのに、あんなに簡単に入学して、しかも懇切丁寧に基礎教育を施されているなんて、なんて至れり尽くせりのアマちゃんなんだ!と反発するヒトもいるかも知れないけど、大学を卒業することが数十年前と現在では認識が大きく違うこともまた事実なんだよね。この辺は大学教育はこうあるべきみたいな、べき論とは又違った部分なんだろうね。
だいたい、学歴社会じゃなくて、どの学校を出たかが興味を持たれる学校歴社会になっている現状を考えれば、ただ単に大学をでたかどうかで判断されているワケじゃあないのは明白だから、学士云々の権威は筋が悪いような気がするのよね。(このへんはびみょうなとこ)

■自分が関連したこと感じたこと
どらねこは、専門学校と地方短大で教えていたことがちょっぴりあって、四年制大学が抱える問題をちょっぴり早く体験していたのかも知れない。そこでも基礎的な教育を採り入れないと、専門教育に進めないなんて話が持ち上がって、理科の初等・中等教育みたいなのを採り入れた事があったのね。小中学校何して来たんだよ?なんてその時は思ったものだけど、現在はちょっと違った感想を持っている。なんでかわったんだろうな・・・。あー、そう謂えばこんな事があったっけ。
あまりに初歩的な事から話さなきゃイケナイ事にいらついたどらねこ。でも、次の例に示す講師に対して学生時代に反感を持った。

その講師の方は、黒板に難解な文章の羅列(にどらねこには見えた)を板書した。そして、手に持つ小冊子の文章を読み上げる。解説は無い。どうやらとても専門的な話らしいが、アホなどらねこには殆ど理解できない内容であった。

このような講師の方式はどうかと思う、なんて同僚に話したところ、それはアンタが違うよ、大学は最新の知見を教授するところだから、興味を持った人が講義を受けるのが前提で、その前には自分で予習しておかなければおかしいのだ。そのセンセイが低いレベルに降りる必要は無い、なんて諭された記憶がある。その場は、そんなものなのかなぁ、と思ったのだけど、なんとなく釈然としなかった。この話を基礎的な教育の議論をしているとき唐突に思い出した。難解な板書をする講師に反発を持った自分は結局その講義からは何も得なかったではないか。そして、その講義は何も面白く感じなかったではないか。おもしろさを感じなければヤルキになんてなれないよね。
あと自分が研究でお世話になった大学では、専任教員の裁量に任せられた科目が用意されていて、基礎教育科目であることはシラバスに謳ってはいないものの、似たような内容で行われていたようです。
初歩的な科目をキチンと明示して用意する大学というのは、分からないのを放置して、本人のレベルに合わない授業を用意し、一方的にお話だけしてキチンとしたレベルの高い講義を行いましたよ。あとは出席で単位認定して、ハイ卒業ですよ、なんて事をするよりも良心的だと思うよね。理想ではないのは明白だけど。

■社会にとってどうなのか
社会全体にとって、4年制大学入学者割合の増加はどんな影響があるんだろう。大学入学者達が、そのヒトのレベルにあった内容で4年間教育を受ける事が出来るのなら、社会全体の教養は高くなると考えられそうだけどどうなんだろう。高校卒業して行く場所が無かったら学べなかった事が4年間親切に教えて貰えるんだから、この点だけ見れば悪いことは無いようにおもえるよね。多くのヒトがしっかりとした教育を受ける事ができる社会というのはスバラシイと思うんです。貧困ビジネスみたいなのに、引っ掛からないようなリテラシーを身につけるような教育も大事だしね。弱者が身ぐるみ剥がされてせっぱ詰まった場合に何が起こるのかを考えればね。
でも、コストを考えるとどうなんだろうね。妥当な投資と謂えるのかどうかは考えないとイケナイとは思いますよ。
大学の運営は私立大学であっても公費が投入されていて、4年制大学の入学者数を維持してまでもこのような教育を行う事がコスト的に問題ないのか否かという事も考えなくちゃいけないのかも知れません。何かというと、私立大学に通う事が可能である家庭の子どもであれば、このような優遇された再教育を施される機会を得られるのに対し、大学進学を諦めなきゃいけないような環境に有る子にこのような再教育を受ける機会が十分に与えられているのか、予算が投入されているのか?という疑問があるからなんですね。

■どれだけの効果が期待できるのか
そこに大学があって、魅力を語って入学したヒトが居るという事実はかわらないわけで、内部の教員がベストを尽くすと謂うのは否定される事じゃあないと、これは強く思います。システムの問題とかはまた別の話ですね(いや、大事だけど)。システムについての指摘では多くの方が初等・中等教育での留年が極めて特異である現状に問題があるのでは、というのがとても重要に思いました。
さて、大学で初歩的教育から行う事には効果があるのかですが、勿論そんな事はどらねこにはわかりませんが、色々思うところはあります。でも、それまでの12年間の勉強で理解できなかった事を今更やって理解できるようになるの?という意見もあるようですが、これに対してはある程度意味があるとどらねこは考えます。
基本的に義務教育では学年が進めば次の単元に進んでしまいます。小学校ではある程度まってくれるよゆうもあるでしょうが、中学校でそれが顕著です。そうして、分からないままに他の理解が進んでいるヒトと同じく新しい範囲を授業で聞くことになります。そして、それが繰り返されます。次は高校ですが、一応大学進学を意識しているでしょうから、受験対応の勉強になります。そうすると入試を意識した教育になってしまいます。基礎を理解できていないヒトに基礎を教える教育ではなくてね。そう謂うヒトは受験テクニックとして暗記に傾くのかも知れません。基礎のないままに詰め込まれた用語教育にどれほどの意味があるのかという話かも。大学では受験を意識しない教え方で基礎教育の授業を組むことが出来るはずです。
もう一つ発達段階的な事もあるかも知れません。ある段階に達していないと理解できない概念というのもあるでしょうし。小学校ではその本来の意味を理解しないまま操作していた内容について、大人になってから学んだ場合、「あーそんな意味があったのかー」と経験した人も多いかと思います。そうすると、芋づる式に知識や理解の幅が広がったりする可能性があるとおもうんですね。ヒトの発達過程なんてヒトそれぞれなんだから、小学校レベルの勉強が小学校時代にはまだ早かったヒトが居てもおかしくは無いと思うのね。まぁ、それを大学でやるのがタイミング的にどうかという話はあるとは思うけど。
もう一つが必要性かな。自分が大学に入ってコレを目指そう!と、思ったことが初めてできた子がいたとして、それに必要な勉強を今までやってこなかった事に気がついた。そんな時にやり直せるというのはすごーく親切な設計だと思う。そして、そんな子が多い大学だったら親切なやり直し科目があるのには凄く意味があると思う。

■まだあるけど
まだまだ色々考えることはあるけど、この辺で終わりにしようと思います。
最後に、この記事を書こうと思った直接的な原因は、某所での話題で大学の基礎教育部分のシラバスを見て、笑っちゃうと謂う意見を多数みたからです。それはその人の気持ちなのでしょうから仕様がありませんが、どらねこは色々考えちゃうんです。だって、当該大学に在籍して、まさしくこの科目を履修している子が、この話題を目にしたらどう思うか、そう謂う事を考えちゃうからです。勿論、見る可能性は低いかも知れません。でも、その子に今後その子に接する機会を持つヒトが目にする可能性はもうちょっと高いと思います。そのヒトは先入観無くその子に接することができるかしら・・・とかね。どらねこは人間ができていないので、どうも自分を基準に考えてしまい、色々と不安に思ってしまうのでした。
では、中途半端ですがこれで終わりです。