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トンデモネコが思ったことを適当に書き散らした記事です。読むのは時間の無駄になると思います。

■品性下劣
どらねこは、品性下劣な存在である。自分が嫌いな奴が失敗をしたとき、「ざまーみろ」と思ってしまうようなヤツである。ネコをいぢめるヤツは同じ目に遇えば良いんだ、と思うようなヤツである。だから、テレビなどで悪辣(に見える)犯罪者が捕まったという報道をみれば、悪辣度が高いと感じるほど、ざまーみろ感も上昇するのだ。大金持ちでちょーしこいてる(ように見える)ヒトが、失敗をしたり、問題をおこして転落していく様が放送されれば、コレも同様にざまーみろと思うし、気にくわないようなエピソードを知れば知るほど、ざまーみろ感やスカッと感は上昇してしまう。
だから、こういった情報を掲載するテレビ番組や雑誌記事をついつい見てしまうし、娯楽として楽しんでしまう。でも、そんな自分を文章にしてみると、とっても恥ずかしいんだよね。品性下劣さは簡単には変えられないから、極力そういった番組を見ないようにしているのね。

■日常の延長線上にある娯楽
テレビ媒体から提供される娯楽番組は、演劇やテーマパークなどと比べると、日常との境界が曖昧なモノが多いと思うし、娯楽番組の幅も広がっているように思う。教養番組の装いをした娯楽番組もいくつか思いつく。
教養番組では、知的好奇心を満たす事、報道番組では、社会情勢等を的確に伝えることが主な目的の一つであるはずだが、娯楽的側面を強調して伝えられる傾向にあるようにどらねこには思えるのよね。犯罪が起こって、こんな猟奇的な殺し方だった、犯人がこんな人物で、昔から悪かった、ネコをいぢめていた・・・などなど、感情をあおり立てるような情報がてんこ盛りになっている。関係者の家に殺到し、マイクを突きつけるのは何の為?それって本当に必要な情報なの?

■エンターテイメントであること
個人的に受ける印象なのだけど、『娯楽』は日常と非日常の楽しみ両方含み、『entertainment』は日常から隔離された非日常的空間で愉しみという感じを受ける。なんとなくなんだけどね。日常と非日常と書いたけれど、このどちらも個人としての愉しみが中心であり、日常であっても、娯楽の中の虚構を社会的な場にそのまま持ち込んでは良くないモノだと個人的には考えている。この辺りの認識が曖昧だと娯楽を娯楽として安心して楽しめなくなるおそれがあるんじゃないかな。

■情報提供番組や教養番組に於ける虚構
情報提供番組等で得た情報は日常生活や社会的活動を営む際に利用される事が想定されていると思う。だから、提供される情報は確からしさが求められると思う。これは教養番組でも同じだよね。ところが、これら番組と娯楽番組の境界線がとっても曖昧なような気がするんだよね。表面上は教養番組の風を装っているけれど、制作サイドのスタンスは娯楽番組のソレであったとすれば、何かと問題があると思うのね。
虚構を現実に持ち込むと色々やっかいな事になる、というのは多くの方にとって共通理解だと思うのだけど、放送されている番組で語られている事がその場限りのものなのか、そうで無いものなのかという判断がつかないような形で提供されている事があると思うのね。大学教授が登場して、「脳科学的には・・・」とか、ある分野で著名なお医者さんが「日本人の腸は長いから・・・」そんな独自の説をさも共通理解の如く説明し、「だから○○すれば体によい」みたいな妥当性に疑問符がつくような対処法を全国に流している状況だ。
問題点を指摘し、追求したとしても放送局は、バラエティー番組ですから・・・と逃げるんじゃないかな。

■県民性を採り上げた娯楽番組を楽しめない
娯楽的側面を持つ教養番組よりも県民性を採り上げた娯楽番組は誤解を招く頻度は少なそうだ。でも、番組の中だけの他愛もない話として受け取られていないんじゃないかな。個人的にはそんな印象を持っている。
番組中では、アンケート調査を実施し、その結果に基づいて性格傾向のランキングを作成し、該当する出演者から話を聞き出したり、冷やかしたりして場を盛り上げる。地域独特の趣味嗜好等を採り上げ、余所の地域代表という設定の出演者が「それはあり得ない」などオーバーリアクション。
県民性というか、地域性というものは確かに存在し、気候風土や文化等により形成された特徴である。どらねこも学生時代、地域と食文化について授業を受けた記憶があるけど、各地の様々な食材や独特の料理法には驚かされたし、離れた地域に於ける共通性に交易や船の航路の関連性を見たりととても有意義なものだった。
そういった学問があって、社会科学として研究されている一方、番組内で行われたアンケートは社会調査の手法とはとても謂えないようなものであったり、設問の項目が謎だったりする。そもそも同じ県内でも地域によって傾向に大きな偏りがあったりするのはザラで、江戸時代の藩に従って分けた方がよっぽど特性を説明できる可能性もあるだろう。
番組で紹介しているのは、そういった研究成果ではなく母集団が不明確なアンケート調査の結果であったり、現地取材を元にネタになりそうなシーンを編集したモノに過ぎない。しかしながら、調査という言葉から、ある程度妥当な話であるかのように受け取るヒトだって居るかも知れないよね。

■個人への当てはめ
娯楽として提供する番組中では、アンケート調査によって得られたデータを元に傾向として紹介するが、この傾向を個人に当てはめ、○○県民(出身者)は△△だ、△△の傾向がある!として、話を盛り上げる。いぢられ役キャラなら尚更だ。
勿論、これらは演出なのだけど、この傾向という言葉がくせ者だと思うんだよね。全体としてはデータに偏りがあるとしても、集団の中の個人があるとされる特性を持っている保証は何にもないからね。
県民全体が、ある特殊な傾向を持っているのではなく、集団で見た場合、別の集団と比べて差が見られたという事に過ぎないからね。(差があったとしても)

■次の日の職場
ソレが放送された翌日、ウチの職場は当該番組がお昼の話題に上ることが多いのね。
「○○県のヒトは△△なんだってねぇ、思った通りだよね」
「そうそう、あの人も△△だから、そうじゃないかと思ってた」
「やっぱりケチなのは県民性だよねぇ」
とか、そんな感じの話がつづく。
どらねこは東京出身だから、あんまし県民性が話題になることがないんだけど、たま〜にいわれるのが、東京のヒトだから合理的なんだよねみたいなの。とうきょうしゅっしんかんけいないっつ〜の。
いちばんやなのは、他県で好まれている食べ物とかを貶すような謂い方をするヒト。あんなものを食べてやばんね〜、みたいな感じの。
出身地は本人の努力で変えることも出来ないし、本人をちゃんと見ずにレッテルを貼って良いものじゃあないよね。同じ国内でもコレだから、他国への偏見なんて尚更だよな〜、そう思う。聞いていて気持ちの良いものじゃあないんだ。

■だから番組も楽しめない
娯楽番組の虚構は現実社会に持ち込まない、そんな合意がある程度為されていなければ、安心して楽しむことが出来ないんだよね。現実での嫌な思いが蘇ってきたり、想像できてしまうから。
皆が安心してフィクションを楽しめる社会は豊かな社会だとおもうのです。