えいゆうものがかり

先日、捜し物をしていたら、東京に住んでいた頃に買った本が発掘されたので、パラパラめくっていたところ、あるページに少し引っ掛かってしまった。

太平洋戦争敗戦後、日本の教育の題材から消えて久しいものの一つに、「英雄」物語があります。各時代、各分野の英雄を選りすぐり、その生き方、考え方から学ぶということを、偶像崇拝、エリート教育などとみなし、積極的に否定してきました。
<中略>
しかし、戦前は大いに違いました。英雄伝が、人物評論が、大人といわず子どもといわず、好んで読まれました。立川文庫の英雄豪傑たちに混じって、プルタルコスの『英雄伝』も少年達に読まれました。
<中略>
自分の「先生」(モデル)を歴史の中に見いだし、それに学ぶ。これほどの「教育」はありません。自分の先生が「親」であったり学校の「先生」でしかない少年は、心を広い世界に羽ばたかせることはできないのではないでしょうか。少しでも目立つやつをモグラたたきのように押し込め、ドングリの背比べさえ禁じるような「等しきをもって尊しとする」空気を早く脱したいものです。

鷲田小彌太 初めての哲学史講義 PHP新書 p114-115より

■以下、とくに論拠無き個人的感想
英雄モノが教育から消えた・・・鷲田氏が此処に述べているのもその通りだが、おそらくマルクス主義由来の唯物史観が関連している事は否めない。しかし、積極的に否定されるにはそれなりの訳があって、単にイデオロギーの問題だけでなく、歴史研究により明らかになった事実らしいと考えられる歴史をなるべく正確に伝えたいという、ある意味教育としては至極当たり前な動機と考えた方が自分にはしっくり来る。
氏は英雄の生き方から学ぶ、と述べているが、その英雄の生き方が時代背景に因り歪められたモノだとしたら本来の英雄に学んだ事となるのだろうか。
まぁ、偶像崇拝的なモノとして積極的に否定される理由としては、肉弾(爆弾)三勇士のようなメディアに因って創り上げられた英雄の問題を反省する部分が大きいんじゃないかとも思うんだよね。
戦前は大いに違った・・・それは結構な事だ。その話は教育の話なのか、日常の娯楽としての話なのかは定かではないが、今では学校教育に於いて英雄物語をわざわざ提供する必要は無くなって居るんだよ、きっと。だって戦後しばらくして、漫画やアニメというメディアから素晴らしい英雄が飛び出してきたのだからね。多くの子ども達がそれを手にすることが出来るような社会に段々となってきた。あ、今でも虚構の英雄は人気あるかも知れませんね、見目麗しく飾り立てられた戦国武将が若い女性に人気だという話をきいたことがありますし。
(歪められた英雄と虚構のヒーローは一体何が違うと謂うんだい?歪められた英雄伝を教えなくなった学校ではその代わりにタイガーマスクを教えたりしてないでしょ。マンガだけ教えるというのなら問題だけどね)
結局、今の子どもは英雄物語を与えられる環境に無いからダメだと謂いたいのかなぁ、違うとよいのだけど。
どらねこにだって、ワクワクドキドキの物語はいっぱいあるんだよ。小さい頃は映画館でみたドラえもんにそれはもぅ、沢山の夢や希望を頂いた。RPGなんて英雄物語そのものだよね?
少しでも政府や教師の教える内容と違った考えを持つような目立つやつをモグラたたきのように押し込めるような教育をしていたのは何時の時代の事でしょうか?「等しきをもって尊しとする」空気を早く脱出したいもの、というのは本当に同感です。貧しい時代、学校でしか英雄物語を学ぶ機会がなかったような時代には戻りたくありません。
全ての子どもが経済的な不安無く教育を受けられる環境を調え、自分にとっての英雄物語(必ずしも偉人である必要のない)を手に取り、夢や希望を育んで、同じ地点から自由な競争ができる社会になって欲しいモノと思うんですよね。
70年代のショックを深いところで引きずっているのかも知れないなぁ・・・