健康食と危険食②

健康食と危険食を読んでどらねこが抱いた感想は、『マクロビと何処らへんが違うのかな?』だった。前回のエントリで師匠の桜沢と袂を分かつと書いたが、この本を読んだだけではそんな印象は抱かない。彼も食品を陰と陽に分類し、肉食を最小限にし、精製されていないモノを丸ごと頂く。さらっと読んだだけでは見分けがつかないのだ。
なぜ、マクロビとの違いを見出そうとしたのか、それはネット上で以下に紹介する記事を読んだからだ。

松井病院ホームページには食養内科という聞き慣れない科名を見つけることができる。この食養内科は河内氏と同門である、日野厚氏の理念を継承しているようだ。そのコンテンツの1つを開くと河内省一氏が雑誌『しんえいよう』*1に寄稿した記事を読むことが出来る。二次資料なので、正確性には注意が必要だが、他で見た河内氏が書いた文章との整合性もあるため、どらねこセンサー*2は青を示した。

ttp://www.matsuihsp.or.jp/shokunai/html/mansei/mansei_v02_01.htm

誤った食養の罪悪  GOは天才か嘘つきか
クレマン・S・K*3
はじめに
GOこと桜沢如一氏(以下Gと略記す)が亡くなって二十年近くたった。
その生前の事実――今回のそれは三十二年も前の一つの治験にすぎないが、これを今日とり上げて貴重な誌面を埋めようとしている理由は、いくつもあるのだ。
要約すれば、Gの亡霊とでもいうべき誤った食生活指導者が大勢いて、Gの生前と同様に、あるいはもっと広範囲に、国の内外で犠牲者がつづいているからである。
若いころGに協力し、Gの名で二、三の著書を書いた責任が私にはある。そしてG式食養という名の偏食を人にすすめてきたことの反省をありのままにのべて「食養」を考える上で、ひとしく参考にしていただきたいと考えたのである。
 天才的といわれたGの活動の中で、功の一面も知ってはいるが、しかし許されてはならない罪は、無用な人命の犠牲であった。このGの誤った食養の犠牲は、可及的すみやかに防止しなくてはならない。

これは驚きの告白だ。彼のマクロビオティックスは誤った食養であり、速やかに防止せよと述べている。それではどのような『罪』があったというのだろうか。

ウイスキーは即効陰性?
半ボトルラッパ飲みのG
 「すると。食養的で即効性のある陰性は何でしょうか」
 「そうだッ! ウイスキーだ、スコッチのホワイトホースだ!」
 今度は即答的にスパッときた。ウイスキーが食養的な陰性?
 「クレマン、キヨ子にホワイトホースを買ってきてもらいたい。すぐに! 新宿三越近くのPXだ。十時開店だ」
 キヨ子は九時頃MIを出たが、上京してわずか三週間目である。新宿駅の出口にさんざん迷ったのち、十一時近くになって帰って来た。
 ウイスキーを手にしたGはいきなりラッパ飲みを始めた。半ボトルを飲んだところで、さも満足そうに―
 「どうだ、僕の陽性さが分かるだろう。これだけのスコッチを飲んでも少しも酔わないではないか」
 私は唖然として、それに抗弁することさえ忘れていた。Gの陰陽論とは、かくも便利重宝なものだったのか。これは詭弁であり、観念の遊戯ではないか。

食養を掲げ実践する人が大量のお酒を飲みたくなった、そんな時はどうするの?自分は強陽性だから、陰性のお酒は沢山飲んでも大丈夫、こりゃ便利だ。しかし、その時点で気づくだろう?宇宙の法則であるならば、個人の都合で曲げることなどできるはずがないからだ。科学でも哲学でもない、マクロビの宗教性が垣間見えた瞬間だ。

名取太郎君の死
一人息子の太郎君は十七歳ぐらい、結核でやせ細り、顔色蒼白、末期を思わせる重症だった。父も結核で死亡、四十歳ぐらいの母と二人切りだった。
 病床からタクシーまで、さらに甲府駅新宿駅の乗り換えから、新橋駅でのタクシーへ、すべて私が背負って三階のベランダに寝かせてやった。
 Gの食箋は例によって「ゴマ塩三勺」式の塩からい食物。果物はおろか生野菜一切れさえ与えられない。その上、水分も番茶一日に一合五勺であったから、太郎君は日に日にやせて行った。二週間目頃から口内炎を起こし、温かいものや塩気が沁みて食べられない。
 三十九度内外の熱が出て、激しい咳に苦しむが、蓮根湯・芋薬などをGの指示で与えても全く効果がない。
 入院一ヵ月のころ、太郎君はいよいよ重態に陥った。
 ところがGは、その頃執筆旅行と称して本部にいないし、林氏は事業部の仕事が忙しく、これまたほとんど姿を見せない。頼りにしてきたG先生や林先生がいない病室に、見習いの私独りではどうにもならない。太郎君母子の不安はつのる。
 <中略>
 太郎君はそれから数日後に亡くなった。抗生物質の無かった戦前の結核だから、いずれは助からぬ太郎君だったろうが、自宅で放任しておいても、おそらくあと数ヵ月は生きられたであろう。
 食塩過剰と栄養失調が太郎君の死期を早めたであろうことは、クレマンにも十分考えられた。クレマンも、太郎君の年頃に胃潰瘍結核を患い、寺で玄米食半年の後再起した経験をもっている。しかし、生野菜の制限はなく、病人ということで魚貝類の差し入れも許されていた寺の生活であった。
 太郎君のほかにも、当時半年間に二、三人の青年が結核で死んで行った。
 どの病人の場合も、いよいよ重態に陥るとGは旅行や出張で姿を見せなかった。病人や家族の不満と恨みは共通していた。Gという人間は大言壮語はするが、いざという時には逃げ廻ってその責任を回避する冷酷な人間であると考えた。

病気や個人の特性を顧みない一様に処方される、玄米にごま塩三勺のおかずで栄養失調を助長した桜沢式の食箋は現代のマクロビで云うところの六号食*4に近い食事であろうか?修養や断食などの苦行にではなく、病人に処方されていた事実があるのだという事を現代のマクロビ実践者の多くは知らないのではないだろうか?勿論、六号、七号食は現在も示されてはいるが、協会でも一般に推奨していないようである。
しかし、いざという時には逃げ回る人って、冷酷な人間というより無責任で、どうしようも無いヤツというのがしっくり来る様な気もするのだが。

ミイラにされた赤ん坊
 戦前はG式食養の犠牲者は結核患者に最も多かったが、戦後では乳幼児の犠牲が特に惨めな印象として残っている。
 昭和二十三、四年頃、Gは東横線日吉に住んでいた。音楽家のS夫妻はここに同居してGに協力していた。食養家に今日も愛唱されているいくつかの歌の作曲はS氏によるが、このS夫妻の乳児が次々とG式食養の犠牲になった。
 G式食養では十分な母乳が出ないので玄米スープ、玄米クリームに依存する。カロリーと蛋白、さらにビタミンCなどの欠乏で栄養失調に陥り、空腹に乳児はピーピー無く。狭い住居で終日泣かれるのでGのヒステリーが起こる。赤ん坊は押し入れに寝かされてふすまを閉める。
 その死体はまるで猿のミイラのようだった、とS夫人の実弟H医博その他から聞いている。それが何と二人か三人続いたという。
 だからG式食養のグループが信仰集団と批判されることになるのであろうか。
 その時のS夫妻の心理もクレマンには理解しかねるが、それを平然として同志に強いて、反省することの出来なかったGの性格は正常とは考えられない。
 惨酷な人体実験というほかあるまい。

いや、そんな状況を放っておいた側もとても正常とは考えられない。「信仰集団と批判されることになるのであろうか」と、疑問形で語る彼の態度こそが宗教集団であることの1つの証左に見えてくる。だって河内氏は因果を理解しているのでしょう?だったら出来ることがあったはずだ。
彼の罪を告白するのは理解できるが、彼が信じた食養自体に疑問を持つことが普通なのだと思うのだ。彼の食養を否定しつつも、根本原理を疑わない態度をみると、その批判すら単なる責任逃れにしか見えない行為だ。

二木式と桜沢式食養
 食養の両巨頭といわれた二木・桜沢両氏の食養が全く両極端に対立していたので、「どちらの説に従えばよいのか」という質問を、長いあいだ病人や講演会の聴衆に聞かれたが、両氏の亡くなった今日もなお、時々同じ迷いに陥っている人がいる。それではお答えしよう。
 二木式食養といわれているものは、陰性に片寄った食法である。それは、食塩・みそ・醤油などの塩気は無用で、有害であるとし、二分間煮の野菜・果物は大いに食べよ、水も飲め。そして動物性食品も否定するというのであるから、陰性療法に入る食法ということになる。
 二木式の実行で、無気力になり、立って歩けないほどに筋肉の収縮力を失った人や、土左エ門のように水ぶくれして坐ったきり容易に立ち上がれない失敗者などを、今日までにたくさん診てきた。
 二木先生のように生まれつき陽性で、大変な闘志と、稀に見る強い意志の持主であったからこそ実行できたし、幼児の動物性食品過剰から起こっていた皮膚病や腎臓病を征服して、九十四歳の長命を全うされたであろう。
 これとは反対に、生まれつき陰性の桜沢氏から「陽性の食養」が生れたのも自然だといえよう。「玄米とごま塩だけで、いつ、だれが、どこでも、いかに長く実行してもよい。これが最高の食養だ」と主張した頃から「桜沢式食養」という固有名詞が生まれ、そのときすでに食養から外れて行ったのである。
 「一が二を生み、二が三を生む」と古人はいったが、石塚左玄の食養が二木・桜沢の陰・陽両極端を生み出したもので、「易」の示すところ、自然の成り行きであった。
 二木式を左手に、桜沢式を右手として、自由に陰陽を使い分けて誤りなく、常に人をより健康に、美しくするというのが第三代の食医の理想ではあるが、道はきびしく、まことに至難というべきである。
 食養だけでなく、すべての健康法、あるいは治療法にしても、常に人の環境や職業その他の生活条件と、その人の生まれつきや、生後の食生活がつくり出している体質や病状を、常に陰陽的に判断して、流動する生命の動きの中で調和をつくり、健康と美を保ちつづける努力が必要であろう。
 局所にとらわれたり、立場が固定しては、その健康法は功罪相半ばすることになると思う。

 両者を批判しつつも、それは陰なり陽なりに偏り過ぎてしまった事が原因であったと結論づけた河内省一氏。悲惨な歴史すら、陰陽調和の大切さとして纏めてしまったのだ。これらの失敗を陰陽に基づき物事を判断する事自体に問題があったのだと考えつかなかった彼の精神状態は如何様であったのだろうか?

次回からは彼の著作、『健康食と危険食』に言及する予定なのだが・・・
さて、どうしよう。

*1:現在は『ラビエ』という名前でサンロード出版より刊行されている、波動と健康情報誌である。「は〜どうも」

*2:非常に危ういセンサーだが、人の欠点をあげつらうことに関しては定評がある

*3:河内省一氏のこと

*4:桜沢如一が提唱した十段階の食事の上から二番目、食事の九割方を玄米とし、残りを塩辛い煮物が少々。七号食は玄米のみである。何処が健康法?