小麦戦略でお米が衰退したのか【後編】その1

前回に引き続き、『荻原由紀著、パンとアメリカ小麦戦略「べき論」に惑わされないために』を引用しながら、お米離れとアメリカの農業戦略等の関係などを検証していきたいと思います。前回はパン食が広まったことがお米の消費がへってしまった主な原因であると謂う説をデータを見ながら検証すると、どうやら的外れなのかな?そんな感触をつかみました。【後編】ではアメリカの小麦戦略とされるキッチンカー事業など国のパン食普及に向けた取り組みの実態などを検証していきます。今回も引用多めに紹介していこうと思います。果たしてどんな実態であったのでしょうか?

■そもそも伝統って?
日本は『みずほ』の国で、昔からご飯を主食として食べてきた、そのような話をならったり、耳にした記憶のある方もいらっしゃると思いますが、実際はどのようなものであったのでしょう。日本とひとくくりにして語られる事が多いのですが、日本とひとくちに謂ってもは全国均一の文化ではありませんし、気候もちがえば地形も様々です。地域自慢や文化の違いを楽しむ番組が成り立つのもそこに大きな違いが存在するからにちがいありません。ましてや現代に比べて昔の(特に近代日本以前)日本では、その差違はとても大きなモノであったことでしょう。

技術と普及 11月号 p36より
民俗学の研究によると、農民は年貢などで米を滅多に食べず、明治時代までは、麦、雑穀・イモ類が主食の地域が沢山ありました。小麦は粉にしないと食べづらいため、そうめん、ほうとう、ひっつみ、お焼きなどの伝統的粉食が誕生しました。そばやうどんは粉食のファーストフードです。奈良時代から小麦菓子も存在し、まんじゅう、きんつばなどは江戸の庶民も食べました。
一方、米はというと、元禄期に白米を都市住民(町民)が食べ始めましたが、常食化したのは大正〜昭和初期、生産量が増加してからです。農民も含め全国民の主食が米になったのは、昭和30年代以降です。こうした事実を踏まえ、農学者の渡部忠世らは「日本人は米食民族ではなくて、米食悲願民族だ。」と指摘しました。

※参考※先日のネタ記事ですが、明治時代の主食状況などについて書いております。http://d.hatena.ne.jp/doramao/20111126/1322310960
近代日本から現代日本にかけての主食の変せんはだいたいこのようなものでしたが、それではパンはどのように広まっていったのでしょう?

■パンは昔から食べられていた?
パンが全国的に受け入れられるようになったのはほんとうに学校給食が主な切っ掛けだったのでしょうか?
パンと謂うことばはポルトガル語からきており、ポルトガルの宣教師が日本に伝えられたと習いましたが、その後は江戸時代後期になるまで日本国内で一般につくられる事はなかったようです。

同書 p37より
歴史をひもとくと、学校給食開始以前から、パンは都市住民に定着していました。
まず明治期、アンパンの大流行で「高級なおやつ」として人気を獲得し、消化吸収の良さや脚気予防、戦地で煮炊きの煙がたたない点など様々な利点から、軍隊や病院等で主食に採用されました。その後衣食住の洋風化とともにパン食も広まり、大正7年米騒動で、庶民の米の代用品となりました。
<中略>
敗戦直後には廃材で簡単に作れる「電気パン焼き器」が流行し、援助小麦等のパンで大勢の人が飢えを凌ぎました。

あんパン・・・えー、木村屋でしょうね。これはもう明治初期のお話しですから、近代日本の幕開けとともに育ってきた文化と呼んでも良さそうです。戦後の食糧難時代に援助小麦をパンとして利用可能であったと謂うことは、すでにパン食文化がある程度ひろまっていたことのひとつの傍証といえそうですね。

同書 p37より
一方、農村部はというと、「生活改良普及員活動事例集 第1輯」(昭和26年農林省農業改良局)のせい除l田妙子氏の報告では、熊本県木倉村では学校給食開始前に4人に1人はパンを食べたことがあったそうです。

これは多いのか少ないのかちょっと評価が難しいかな。次の学校給食導入当時のエピソードを引用した文が面白いです。

同書 p37より
「信州の片田舎の小学校に学校給食が導入されたのは、私が小学校3年の時(1957年)であった。当時集落に2つしかない雑貨店では丸いアンパンが5円、黄色いクリームが入った三日月パンが10円で、お盆とか正月でも滅多に買ってもらえなかったそんな状況の中でのパン食導入は、我々子供たちにとっては朗報であり、毎日パンが食べられることに浮き浮きしたことを覚えている。(中略)毎日食べるとなると憧れのパンも意外にうまくないことがわかり、パンに対する思い入れは一気にしぼんでいった。」(篠原孝地産地消と学校給食」食料月報2001年11月号より引用)
このエピソードからも、学校給食開始以前にパンの味が農村部の子供等に知られており、むしろ学校給食で、パンがそれほど美味しくないことを知ったことが分かります。それ以降に生まれた世代からも「学校給食のパンはあまり美味しくなかった。」の声を聞きます。

憧れのパンがそれほど美味しくない、そんな体験をした子供は家でパンを食べたいとねだったりしないかもしれませんね。

■給食でパン好きが増えたのか?

同書 p37より
子の時から食べさせると舌が慣れる、という俗説があるので、「不味くても、給食で無理に食べさせられたから、パン好きになった。」と思う方もいることでしょう。しかし、学校給食では他にも脱脂粉乳やピーマンなどの様々な目新しい食材・料理が導入されましたが、未だに子供が嫌う物が多数あります。

当時の給食のパンがどのような味であったのか、実際に食べたことのないどらねこには感想を述べることはできませんが、さいわい母親が当時の給食を体験しており、次のように述べております。

「バサバサで脂身の固まった肉がどうしても飲みこめず、いつまでも睨めっこしていた辛い経験ばかり思い出す。揚げパンがでると嬉しかったが、ほとんど毎日同じコッペパンが出るからウンザリしていた。給食によい思い出は何もない」
「だけど、脱脂粉乳はイヤじゃなかったので、周りの人が残している分をもらっていた」

まぁ、私の母親は偏食気味だったので尚更つらかったのでしょうが、脱脂粉乳が苦手だった、鯨肉は今でも食べたくないと謂うひとの話もきいたりします。現在も残る偏食も子供のころの給食体験が影響している可能性はありそうです。どらねこは『ナス』が苦手なのですが、実はナス嫌いになったのは給食が影響しています。お皿に載せられた『分厚いナスのみそ焼』がその日の献立でした。はしを入れると、中からどろりとした果肉があふれ、一口ふくむとブヨブヨした食感と青臭さに思わず戻してしまいました。給食の時間いっぱい、ナスとにらめっこをしたどらねこはその後ナスを嫌いになってしまいました。他にも、豚肉や長ネギなども給食で嫌いになってしまい高校生になるぐらいまで避けたり、残したりする事もありました。ちょっと良いお値段の美味しい豚肉やネギの美味しさを活かした料理を食べる機会があって、豚肉嫌い、ネギ嫌いは解消されましたが、美味しくないと決めつけて、拒んでいた期間はもったいなかったなぁ、と今でも思います。
脱脂粉乳や鯨肉をいやいや食べた人が舌が慣れ、好むようになると謂うのは考えにくい話です。当時の給食の状況をかんがえれば、給食でパンが出たから日本人はパン好きになったと謂う主張は無理筋だろうと思います。

■パン好きってどんなひと?
きっかけは学校給食ではないかも知れないけど、パンが好きだと謂う人って昔より多いのでは?そんな風に思う方は多いと思いますし、どらねこもそう思います。だって、美味しい自家製パンを焼いているお店は幼少期よりも増えてますし、スーパーでは店内で焼き上げるパンコーナーがにぎわってますから。そんな疑問に対し荻原氏は次のように答えます。

同書 p38より
パンは米と違って、おやつや多忙な時、小腹を満たすために食べるので、好きでも沢山食べない傾向があります。だから「パンが好き」と話す人を見かけることと消費量とは、分けて考えなければなりません。小麦戦略説の前提となる「パン好き」の定義が不明瞭なため、こうした混乱を招くのでしょう。

なるほど、『嗜好品としてのパン好き』と、『主食はパン派』とが混同されている事があると謂うのですね。パン消費量自体があまり増えていない理由はこのあたりにあるのかも知れません。

アメリカの小麦戦略にのってパン食がすすめられたのか?
さて、ここからが後編の本題です。小麦戦略説では、アメリカの補助金に目がくらんだ国が率先して行ったごはん食のネガティブキャンペーンから始まるパン食や小麦粉の使用を推進したいびつな栄養改善政策が、生活習慣病だらけの現代日本を作り出したのだ!!と謂うような激しい主張へと展開します。全てはアメリカの罠だったのだよ、と。ほんとうに当時の栄養改善政策はそのようなものだったのでしょうか?

同書 p38-39より
国がパンを普及したのは事実ですが、この説には様々な事実誤認が含まれています。まず、農林省がパン普及を開始したのは昭和20年代半ばで、一方、小麦戦略説は昭和29年のMSA協定が契機という説だから、両者に接点がありません。
農林省はパンを農家の福祉のために勧めました。戦後まもなくの食生活は現在よりも極端に偏っていました。特に農村部は大量の穀類とわずかな種類の野菜だけを食べる「ばっかり食」で病気になる人が大勢いました。

アメリカの小麦戦略が始まる前から、農林省はパン食の推奨していたのであれば矛盾しますね。ごはんばっかり食は脚気を誘発*1しかねないものです。パン食推進を脚気対策と考えれば、利用できる物資を用いた妥当な政策ではあるとおもいます。

同書 p39より
また、凶作・人口急増(帰還兵や大陸から引き上げ)等で大量の米を輸入し、外貨流出の経済的危機に直面したため、国は援助物資の小麦を代用食にすることを勧めました。昭和29年の「家の光臨時増刊号」や昭和33年の財団法人全国食生活改善協会作成広報パンフにも、外米輸入を減らすためにパンを食べて国家経済を手伝いましょう、パンだけでは栄養が偏るのでおかずも食べましょう、という趣旨が書いてあり、小麦戦略説とは趣が全く異なります。



■キッチンカーは何をすすめたか?(この項追記あり
小麦戦略説では、アメリカからの資金提供により始まったキッチンカー事業により、粉食が奨められ、それが大成功したことで食の欧米化が進展したと語られる事があるようです。実際のところどうだったのでしょうか?

同書 p40より
『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』(鈴木猛夫 藤原書店)に掲載されたキッチンカーのテキストを見ると、8品目中パンは1品のみ。小鰺の唐揚げや野菜の酢みそ和えなどの伝統的なおかずや、醤油やみそ和えなどの伝統的調味料、涼拌麺(仙台で考案された、日本オリジナルの料理、後に冷やし中華と改称。)など、日本的料理が多数あります。

キッチンカー事業に資金を提供したアメリカには当然、小麦の売り込みの意図が強かった事でしょう、どうしてこのような内容となったのでしょうか。

同書 p40より
しかし、日本側の巧みな説明により、おかずの普及事業に変化しました。
当時担当者だった厚生省大磯栄養課長へのインタビューから、その様子が窺い知れます。「そりゃバウム氏は、小麦の宣伝に使ってくれと言ったよ。だけど私はね、日本人の食生活が豊になれば、自然に小麦は食うようになるんだから、長い目で見ろと言ってやったら、バウムもオーケーと言ったんですよ。」(アメリカ小麦戦略…」(先述)より引用)。
活動の中心だった日本食生活協会会長の松谷満子もこう証言しています。「活動は日本側が自主的に決定し、活動の内容にアメリカが口を挟むことはほとんどなく、唯一の条件が『献立の中に最低一品は小麦を使った物を含めること』だった。」(佐藤寛い「クロスロード」2004年4月号より引用)。

引用元の鈴木氏の本は、アメリカの小麦戦略により日本の食事は欧米化し、現在日本を悩ます様々な生活習慣病を招いた問題のある施策だとする意見の根拠として目にすることが多いものです。引用箇所は当時の担当者のインタビューや実際の資料であり、それだけを抜き取れば中立なものと考えられるでしょう。筆者の意見や解釈により用いられ方が異なるだけで、別の主張の根拠や材料として用いることができると謂うのは面白いなぁ、と思います。*2

【追記(12月4日23:50)訂正(12月5日8:45)】
鈴木氏の著作に登場する大磯氏は「混迷のなかの飽食―食糧・栄養の変遷とこれから」(1980年)」において、『自分は小麦を普及するつもりはなく、バランスよい食生活を全国に広めるための資金源として、米国を逆に利用した。』という趣旨の話をアメリカの小麦戦略を阻止したと謂う文脈で述べております。これにより、注釈で述べた内容は、日本が国民に黙ってアメリカの小麦戦略を受け入れたことで日本の伝統食文化が壊れてしまったかのようにみせる日本の伝統食文化を壊した小麦戦略の問題点を指摘する為に元々の趣旨を無視した印象操作と受けとられてもしょうがないものでしょう。マクロビオティックなどの食養を推奨するサイトなどではそれがさも触れられてはならない当時のヒミツであったかのように語られていたりします。

このように、双方の思惑が絡んだキッチンカー事業でしたが、後に広く知られることになるある食生活を生み出す切っ掛けとなりました。
長くなってしまいましたので、その2(最終回)へ続きます。

*1:少し細かい話をしますと、玄米なら問題ないのでは?と思うかも知れませんが、子供や病気の人に玄米ばかりを提供するのは現実的でありませんし、消化しやすいように手間をかけるような余裕のない地域もあったことでしょう。それだけでなく、玄米であっても保存状況によりビタミンB1は大きく損耗するのです。常温で多湿のところへおかれると急激にビタミンB1が損失します。戦後混乱期ににそのような温度や湿度管理が徹底できていたとは思えません。梅雨明け後では、たとえ玄米であっても十分なビタミンB1が存在しているかは疑わしいと考えます。

*2:当時の担当者の意見に、アメリカがスポンサーについていたことはオフレコとなっていたと謂う文章を付け加えれば、実際に行われた事は同じでも随分と印象が違ってしまうようです。そのように元々の考え方や主張などの背景があれば、どらねこが読んだ内容と大きく違う受け取り方をする人が現れることも理解できます。それでもその人の考えは信じられないよ、で終わってしまえば平行線です。立場の違う方でも受け入れ可能なデータや事実などを探す方が遥かに建設的だと思います。