無知と勘違いから生まれた?マクロビオティック【桜沢如一の世界その3】

マクロビ批判もだいたいやり尽くした感じがありますので、ついに本丸の桜沢著作に踏み込んだのですが、キチンと言及すればマニアックになり過ぎちゃうんですよね。まぁ、良いかの開き直りの気持ちを持ちつつ早速、前回の続きといきます。

■野生動物は病気にならない
根本的治療法とは何なのだろう?彼独特の『易』により導き出されたのか、直観か定かではありませんが、桜沢はとあるひとつの『事実』に目をつけました。

p154-155
植物にもあれ、動物にもあれ、人間以外の生きとし生けるもので人間のように多くの病と悩みを有つたものがいるだろうか。彼等は殆ど人間の如き惨めな病と悩みの脅威圧迫の下に戦々としてはいない様に見えるではないか。よしや病気になつても人間の様に大袈裟な騒ぎを演ずる事なく、極く自然な、極簡単な方法で、極めて迅速に他人の手を藉り廻る事なく自分で治療しているではないか。
そして一旦治癒の後は以前通り自然な、簡素な生活を営み、決して外物の力や、特別な努力を継続する事がないではないか。斯くの如き場合の治療は或不自然な状態を自然に復する事を意味するではないか。然して不自然な状態から自然な状態に帰る為に何等特別な努力が要らない筈である。不自然な状態を創り出す為にこそ積極的努力が必要であるが、自然に戻る為は不自然を廃止すればよいのである。その努力たるは消極的で単に堕力を成制御すれば足りるのである。


桜沢は自然な生き物は基本的に病気や苦悩とは無縁であると考えたようだ。その自然の生き物のように振る舞えばヒトも病気に苦しまなくてすむのでは?と謂う発想だ。では、どうして自然に生きることで病気と無縁になれるのだろう。

p158-159
我々の見るが如く、人間以外の生物に人間程病苦が与えられていないとすれば、それは何等特定の条件を守る必要も努力もなしに、此の霊妙な陰陽呼吸、天地調和法を『自然』に行っている為ではなかろうか。人間には自然死が極めて少数で死亡の九割以上が病死即ち不自然死であるのに、人間以外の生物の死が通常、殆どその反対で大部分が自然死である様な事実は如何にも皮肉であるが、その原因がこの辺にあるのではなかろうか、即ち人間は自然の征服を喜び、不自然なる快楽の欲望に馳られて止まる処を知らず、日に月に新しき不自然を創しつつあるのに、人間以外の生物は自然環境に絶対的適応を試み成功している。


人間以外の生物は自然に逆らう事無く生きることで、最高峰の健康法である陰陽調和法とやらの境地に立つことが出来ているのだ、と謂う主張のようである。
では、人間が野生動物のように病苦と無縁であるためにはどのようにすれば良いのでしょうか。

p162
斯くの如き状態に達する方法は、陰陽無双原理を生理学的に飜訳せる『身土不二』の原則を実践する事より外にはないであろう。身土不二の原則に従い、我即食、食即生、生即神、食即環境、環境即我を体得し、その土地、その空間、その時間の与うる産物をその伝統的な即ち自然な産出の分量に比例して摂取する食養こそ肉体を有する限りの我々の健全の最も重要なる条件であろうと思われる。この食養による時陰陽調和機構は努めずして体得され、思わずして実行される。これこそ学ばずして至る自然無為の大道の妙諦ではあるまいか。


要するに師匠と仰ぐ石塚左玄の提唱した『身土不二』の原則は如何に素晴らしいモノなのか勿体ぶって説明を行った文章なんですね。更に、元々は食生活についてのみについての考えであろう身土不二の考えを、自然の動物のように生きる事で無病息災で暮らせるという根本的治療法にまで昇華させてしまった点に注目したいところです。

■無知と誤解そしてまた誤解
マクロビオティックや食養、自然育児などを始める切っ掛けってどんなものでしょう。どらねこの観測範囲では、がんなどの病気や過食などによる体調不良、子どもの慢性疾患や難治性の疾病や障害が切っ掛けになっているヒトをみかけたりします。雑誌やテレビなどのメディアでの売り込み方を見ると、自然であることに幻想を持っている方をターゲットとして美容と健康を謳い顧客獲得を目指しているようです。
マクロビオティックを実践者するひとが期待していることは、健康的で病気にならない体を得る事だと思います。だから少々風変わりであり禁欲的であっても健康を目指して、普段の生活に採り入れて実践を行っていくわけです。
人間は穀食動物だから肉は食べない方がよい、野生動物が薬や予防接種を行うのは自然に反している・・・だから薬物など使用すべきではない。冷暖房など昔は無かった、冬でも寒い部屋で過ごすのが大切だ!などの現代的生活とは随分と離れた主張を鵜呑みにし、実行できるのは自身や家族がそれによって健康になれると期待しているからです。
ところが、マクロビオティックと謂う健康長寿法には何の根拠も無いばかりか、桜沢の無知と誤解により生まれたものであるわけで、彼の提唱する健康法を厳密に守れば守るほど、その命をキケンに晒す事になるわけです。このあたりはホメオパシーよりも更にキケンと謂えそうです。では、何が桜沢の勘違いなのでしょうか。

■野生動物は病苦と無縁ではない
上で引用したように、桜沢は野生動物は病苦と無縁で、その死の殆どは自然死であるという理解を持っている事がわかります。では、本当に野生動物は病気に罹ることは滅多になく、たとえ病気に罹ったりしても自分ですぐに治してしまうモノなのでしょうか。
まず、病気に罹る事は少ないのかですが、野生動物も普通に病気に罹ります。大量の寄生虫により栄養失調に陥る事もありますし、細菌やウイルス感染により命を落とすこともマレではありません。桜沢がこの事を知らなかったのは、実際に野生動物について観察する機会が乏しかったか、若しくは専門的な本を読み勉強していなかった為であると考えられます。病気の野生動物を見る機会が少なかったのは、人里に降りてこられるような状態の野生動物は健康体である事が多かったからかもしれません。また、直接的な死因が病気ではなく、病気によって弱った個体が捕食者によって捕らえられ命を落とした場合が自然死となるような可能性もあるでしょう。しかし、実際には感染症による野生動物集団の個体数減少というのはごくありふれた現象として知られております。ニホンカモシカのパラポックスウイルス感染症やイノシシのオーエスキー病なども一例として挙げられるでしょう。

■厳しい環境を生き抜く事に意義がある?
仮に、このような厳しい環境を生き抜くことで、生物本来の逞しさが養われるとしましょう。しかし、それが真実であったとしても、子どもにマクロビオティック的な生活を要請する親が持つ真のニーズとかけ離れていると謂えるでしょう。それは、逞しく健康に育って欲しいという親の願いは、まず子どもの命がある事が前提だと思うからです。
ちょっと苦しいかもですが例え話を・・・

2つのサイコロがあります。子どもの運命を決めるために親はどちらかのサイコロを振らなければならないルールだとします。
振ったサイコロの目が1の目だったとしたら、残念ながらその子の命は失われてしまいます。
一つめのサイコロは6面体です。このサイコロを振って生き残った子はその後病気に罹ることなく健康な体を手に入れます。
2つめのサイコロは10面体です。このサイコロを振って生き残った子はごく平均的な体でその後の生活を送ります。
あなたは子を持つ親です。どちらのサイコロを振りますか?

これは価値観によって振るサイコロは異なるかも知れませんが、私だったら10面体を振りますね、確実に。子どもの命がやっぱり大事だから。
で、この例え話には実は裏設定があって、どちらのサイコロを振っても健康な体は手に入らない事になっているの。
最初のルールでも結果が分かりやすいから子どもの命を大切に考えるヒトだったら10面体を選ぶと思うし、裏設定まで見せられたら6面体を選ぶ人は居ないと思う。その事が何を意味しているのかを理解してもらうことが大切なんだよね。それは、実際に振ってしまう前に行われる必要のあることだと思います。

■まとめ
自然育児、自然な食生活として桜沢が想定しているのは野生動物のように対症療法を採り入れないで生きる事であり、マクロビオティックの理念を追求すればするほど命をキケンに晒すことになると謂う仕組みです。昔ながらの自然な生活で健康になれると謂う考え自体が桜沢の妄想であり、真弓定夫医師監修の漫画にあるような自然に生きることはスバラシイ!みたいな考えも幻想だと謂う事です。思想家の妄想に真面目に突き合うのはバカげているよ!という簡単な話なのです。
自然は素晴らしい・・・健康な体を持って安全な場所に居るからこそ、その素晴らしさをより強く実感し楽しむ事ができるんですね。




■おまけ
命あっての健康法であると述べてきましたが、実際の野生動物は不自然(笑)な生活をする人間に比べるとどれぐらい健康的なのでしょうか。
とは謂っても、あまりにも生物学的に離れすぎた生き物と比較するのも意味がなさそうです。例えば、自然に生きる魚類などは大量の卵を産みますが、繁殖可能な大きさの個体になるのは数えるほどで、ヒトと比較するのはむいみさんと謂えるでしょう。それならば、ヒトに比較的近いほ乳類と比較するのが良さそうです。
そこで、ツイッターで相談をしたところ、ほ乳類クラスタの方からアドバイスを頂く事ができました。nabesoさん、c_Cさん、有り難うございました。アドバイスを参考に、ヒトとは近い霊長類であり、研究者により個体観察が為されているニホンザルを比較対象にしました。桜沢も観察可能であったと思いますし・・・

■ビジュアルで比較する理解する
特定鳥獣保護管理マニュアル(種別編)ニホンザル特定鳥獣保護管理計画技術マニュアルより図表を引用します。


安定個体群である時期.安定個体群では初期死亡が多い.一方で栄養条件のいい個体数増加時にはその多くが寿命を全うする.横軸は年齢,縦軸は初期個体数を1000とした場合の数値.

初期死亡の高さが伺えますね、1000頭のサルが生まれたとして半数が生き残る年齢は、グラフで見るとだいたい12歳くらいでしょうか。自然に生きる場合には時としてこのグラフのような栄養状態が不十分な過酷な環境にも晒される事にもなります。その場合には多くの個体が天寿を全うすることなくその命を失うことになるのが見て取れるでしょう。これに対してヒトは、過酷な環境に晒されたとしても、それを乗り越える為の蓄えや工夫を行い、生命の危機に備えます。だからこそ、世界中でヒトと謂う種族が繁栄しているのでしょうね。
では、参考までにヒトのデータを確認しサルの生存曲線と比較してみましょう。

厚生労働省報告第20回 生命表(完全生命表)より

10万人の出生児が生命表上の年齢別死亡率にしたがって死亡していくとした場合の生存数をみると、全年齢階級において回を追うごとに増加している。寿命中位数(出生者の半数が生存すると期待される年数)は、第20回生命表では、男81.56年、女88.34年となっており、回を追うごとに延びている。(図3−1、図3−2)

これらは戦後のデータですが、幼い子が死ななくなったことが一番大きな特徴としてあげられそうですね。その他、全年齢に於いてヒトが死ななくなっていることが見て取れます。
つまり、人間は所謂自然に任せた生き方から離れるほど死ぬようなキケンから遠ざかり、長生きできるという事が示されているわけです。

自然に生きるという事は、彼らが現代的食生活を否定する際によく持ち出す逆さ仏をつくりだす生き方だと謂う事です。なんとも皮肉ですね。