どらイモ

※鶏和え酢、乱暴なエントリなのでこちらにアップ。こんがらがった頭の整理が余計にこんがらがったもの。

むか〜し、むかしのお話です。あるところに『どらどら村』という山奥の小さな村がありました。
『どらどら村』には奇妙な言い伝えがありました。
村の東にある青く淀んだ『みゃ〜みゃ〜沼』、この沼から発せられる悪気により、村に疫病がもたらされるのだと。
悪気を払う為には普段から『どらイモ』という作物を主食とすべし。それでも悪気に取り憑かれた場合には悪気払いの踊り『ぽんぽこたぬき音頭』を三日三晩踊り通すべし。
『どらイモ』はこの村特産のボソボソしたお芋で、すこぶる不味い。とある栄養素が殆ど含まれておらず、『くまさんはちみつ』を飲むことで栄養素は充足される。
『くまさんはちみつ』は贅沢品で、ハレの日にしか食することが許されていない。

こんな設定があったとする
ある日の事、病気で衰弱しきった子供がお父さんにいいました。
「ボク、どらイモなんて食べたくないの。死ぬ前にくまさんはちみつが飲みたい」
お父さんはいいました。
「村の掟は絶対だ。掟を守って暮らすことが最も大切なことなのだ。掟に背くことを考えたりするから悪気なんかが入りこむんだ」
子供はお父さんを信じるしかありませんでした。とても疲れたので目を閉じることにしました。

後に分析された事実
・悪気というのは実際には存在しなくて、言い伝えの元となった疫病はとあるウイルス性疾患。
・この疾患は大抵3〜4日で快方に向かう。
・どら芋に欠乏している栄養素は体内貯蔵可能で、年に数度のハレに日に食べる食事で十分補給可能であるが、高熱を伴う疾患などにかかると大きく消耗してしまう。
・どら芋は毒成分を含み、長い間食べることで悪性腫瘍の発症率を高めてしまう。

科学の手法により事実を知り得た人々は、彼らの風習は無駄であったと簡単に指摘できる。しかし、当時を生きていた村人はその事実を知る機会は殆ど無かった。『ぽんぽこたぬき音頭』では病気は治らないよ、無駄だよ。なんて呼びかけようにも過去のことなのでアクセスできない。いってもムダね。
で、今の日本で中学生がこの話を現実にあった事として読んだとしたらどう考えるだろう。
「風邪は祈ったって踊ったってなおんないよねぇ」
なんて言うかも知れないし、科学の発展を喜ぶかも知れない。
まぁ、どらねこ的には、彼らの行為は非科学的で非人道的だ、なんて非難はされないと思う。

規範とか適応とか
『どらどら村』の風習は今でこそ何の根拠もない愚かな行為に見えてしまうが、実際は一つの文化であるし、誤った事実認識であるにしろ、原因(どらイモを食べない)→病気という経験則に基づく物であった。経験則には誤りもあるが有効なものは多いから、コレ一つが誤っていたからといって経験則に頼るなというのは乱暴な話で、経験則を利用する方が賢い選択である。
文化や規範の一つともなれば、それを遵守しないものには罰が与えられる。根拠の無い規則であっても共同体を運営する上では役に立っていたりするし。(社会にとっては合理的だったりね)
これって部分適応なのかな?と。自分たちの目にはもっと良い適応があるのだけど、その当時の文明レベルであれば最適解だったのかもしれないのだ。自分の子供時代を思い起こせば何アホな事やっているんだなんて思うことはしばしばだが、当時の自分にはそれなりに意味があると思ってやっていたことだったりするのだ。理論を受け入れ実践する段階にないのだよね。自分がやっていることが変なことだなんて思いもよらない。手掴みからお箸にかえたばかりはだと手の方が断然食べやすいからお箸の便利さがよく分からない。大人の言うことだからとか、まねっこ以外の理由(子供が合理的に考えてというのは)は考えにくい。
とにかく、過去の人たちの行動を見て、非合理性を感じるというのは現代日本人にとっては共通認識だと考えていいよね。



※ここから先は読んでもらいたい気もするけど、読んでもらう事を目的とする文章じゃあないので以下の文は構成が(さらに)めちゃくちゃになります※

昔のヒトより現代のヒトの方が優秀だとか考えている人もいるのかも知れない
例えば500年前のヒトと今のヒトが同じ条件でそだったらほぼ同じ発達をするのじゃあないかな?基本スペックが上がっているわけじゃあない。昔は自分の足や縄を使って険しい山道を登っていたとすれば、現代は舗装された道路を車で上っていくような感じじゃあないかな。それも休憩所がいっぱいあって、音楽なんか聴きながら。
昔のヒトは能力が低かったとか考えれば、昔の人が今よりも劣る文明にあって、現代の人がそれを見て「わかってないなぁ」と思うのは違和感が無いのかも知れない。そんな風に考えている人が、同時代を生きている人に、「あんたこんな理屈も理解できないの?科学分かってる?」などと脳内で変換されるような事を言われたらどーおもうのか?

起こりうること
昔の人も現在の人も育った環境や文明レベルが違うから異なった理解をもっている。これは現在に生きる人々の間にだって同じような状況は起こりうるのだよね。環境が違えば。そう、育った環境の違いでしかないのね、集団全体で見れば。
異なる文化間に優劣は無いという話があるのだけれど、勿論じぶんもそーではあると思うのだけど、文化に基づいてやっていることに指摘したくなるような事柄が含まれていたりする。文化だからで括って良い問題なのかそうでないのかを切り分ける事が困難な事も多い。で、言われた側としてはものすご〜く頭に来る。いままでやってきたことを否定される気持ち。人格攻撃にも見えるのだろうね。そのような事に怒りを覚える人でも、平安時代のヒトの行動を見たらたぶん不合理を感じてるはずだ。もし一緒にいたら指摘したくなるはず。(よね?)

科学
文化の壁を乗り越えて指摘できるのが科学なんじゃないかな、何となくだけどそう思う。けど、ニセ科学が・・・

とある健康法
悪い生活習慣で健康を害する
→ある人に『とある健康法』をおしえてもらい実践する
→実践したらなんとなく健康になった
→実践する仲間はいい人ばかりでとても楽しい・・・安心感、精神的に落ち着いた
『とある健康法』は悪い生活習慣よりは良い生活習慣だった。
・普通の規則正しい生活習慣と違い続ける事ができたのは、仲間のいい人達のバックアップがあったから。
・実行できない健康法よりは、実行できるマシな健康法の方が良さそうに見える。
・実はこの、『とある健康法』は長く続けていると、数人に一人は『ある栄養素』の欠乏をきたす。
では、この人はこの段階に留まっていて良いの?自分が必要だと思うことの一つは規則正しい生活習慣の推進者の意識改革。でも難しい。

人のこと言えない自分、だってわかるよその気持ち
新しいゲームに手がでない自分がいるのだ。最近はシリーズものばっかりだよ、やってるゲームは。モンハンも3だし。面白いゲームだという評価ぐらいではなかなか新しいゲームに手が出ない。操作を一から覚えるのが面倒くさいからだ。
自分はキーボードで文字を打つとき、ローマ字入力だ。日本語を打つ場合はカナ入力の方が早く打てるのが分かっているのに、マスターするまではローマ字打ちの方が快適だと分かっているからだ。
分かっているのに出来ていない自分・・・でも、これが健康に重大な影響をもたらす事だとすれば、おそらく変えちゃうでしょう。
健康に重大な影響を及ぼす可能性があることが正しく伝わっていない場合どのように伝えたらよいのか。世の中には真剣に考えている人たちがいる。素晴らしいな。