知覚をなめんな

あほのざれごとです



<Aさんにドキドキ>
BさんはAさんにずーと片想い。
でも、ひょんな事からふたりきりでおでかけすることに。
待ち合わせ場所、10分前からソワソワ。こなかったらどーしよう、不安な気持ちでいっぱいです。
そのとき、Aさんの声が突然響きます。
「待った?」
その声をきいた瞬間、Aさんはびびーん、手には汗がぐっしょりとなっておりました。
<それから>
電車に乗って目的地まで移動中、Bさんは流れる風景も楽しめる余裕の欠片もありません。ふわふわ気分のBさんは、電車の突然のゆれに対応できませんでした。
「ああっと」
後ろに倒れそうになったBさんの体を、Aさんの手が支えてくれました。
Aさんの肩に手を回し、Bさんは。
「大丈夫だった?」

手を肩にまわして支えられたBさんでしたが、物理的にはたかだか数十平方糎米の範囲に摂氏三十六度の物質が接触し総計数キログラム程度の圧力が加わったに過ぎない。
しかしながら、Bさんの血圧は上昇し、手のひらに汗を握り、口はカラカラとなりました。
待ち合わせで声を掛けられたときは、空気の振動が鼓膜を振るわせたに過ぎないが、それでもBさんの血圧は上昇した。
外界からの刺激を受け、それが自分にとってどのような意味を持つものなのかという認識しそれを受け何らかの判断を行い、意味づけされたもの(意味づけにより刺激の強さは異なる)に対し、応答が行われる。
応答は意味を受け取り、解釈し答えを返すというだけに留まらず、体内の反応にも影響を及ぼす。最初の例では、言語とそれを発した人物を認識したことで、単なる空気の振動が意味を持ち、それに対して交感神経系が興奮し、カテコールアミンを分泌させたわけだ。
電車内では物理的刺激も伴うが、ただ単に物理的刺激によって為された反応ではなく、その対象がどのような者であるのかを認識した事に反応の質は強く影響を受けただろう事が想像できる。
例えば、同じ程度の物理刺激が何の興味もない人物によって為されていたとしたら、体の反応は別のものになっていただろう事は容易に想像がつく。
最初の例の場面で、待ち合わせが自分の親であれば、同じ単語で呼びかけられたとしても、心拍の増加は伴わないことだったろう。
※ ※ ※
このような反応は日常生活中の刺激で容易に起こりうるもので、別に薬理作用のある物質を体にいれなくても人間の体は様々な反応をおこしたりする。
すこしはずれるけど、信頼していた人間に「あんた嫌い」なんて謂われれば、自殺しちゃう事もありうるわけね。
よーするに薬を投与しなくても体はいろんな反応することあるから、薬に効果があるかどーかをみる場合にはなるべく、この体の反応をコントロールしなきゃならない。そのためにDB−RCTが用いられているのだよね。
どらねこはこんなのを見かけたことがある。
「偽薬効果は凄いんだぞ、無視すんなよ、我々の療法はこれを上手に引き出すものだ、DB−RCTは馴染まない、全人的に観ているんだ」
いや、それ偽薬効果というか意味応答の効果を嘗めてるのはアンタだよ。
嘗めてないから、DB−RCTという手法が大切にされているんだよ。
意味応答的効果は例をみれば分かると思うけど、コントロールが非常に難しいものなんだよね。例えば、BさんはAさんにドキドキだけど、これ、ずっとドキドキしたままだと思う?なんかの切っ掛けで嫌いになっちゃうかも知れないよね。
あと、他人が簡単にコントロールできると思う?
それらは心理療法のプロでも難しい部分だろうね。
中身が空っぽの二糖類の結晶を飲んで、効く感じを持ってもらうのは勝手だけど、それを代替医療と呼ぶには無理がありすぎる。
二重の虚偽がもたらすものは、更なる虚偽しかないだろう。

2010年8月22日、記