とどかないことば

現時点で利用しているけど、悩んでいたり、疑問までは行かないけど違和感を持っている方へはどうやって対処したらよいのかなぁ、みたいな事も考えているのですけど、考えがまとまりません。おそらく自分の手に余る問題だからでしょう。それでも色々ゴチャゴチャと考えたりしています。その一部を垂れ流します。

■ネコ揉み療法で書いたことについて
ネコ揉み療法の記事の後半部分で私は以下のように書きました。

対抗言論だけでは解決できない問題なのは誰もが分かっていると思います。ネコ揉み療法が効くという考え方自体が根拠のないものだと、認めるだけで、利用者がそれまで費やしてきたお金の意味は無くなるし、病気の回復への望みもきえてなくなってしまう。ある意味世界の崩壊なのですよね。
自分が善意で行った行為が他者を不幸な目に遇わせていたという現実を突きつけられる・・・善意の人は耐えられるのでしょうか。こういった面へのフォローが無ければ、利用者には正論であっても届かないのだと思います。ビリーバーは説得できないという表現は微妙だと思いますけど、そういった精神状態になった方は心が壊れてしまわないように身を守るように働く自然な反応や行動の発露なのかも知れません。
崩壊した世界に取り残された個人を救う態勢は整っているのであればもしかしたら・・・という気はしないでもありません。少なくとも他者から突きつけられるものではなく、自分で気づいて自分が求めた情報の中に答えがあった場合のような気がします。

お前に何がわかる!といわれそうですが、この意見の背景を書いてみます。
代替療法の利用者とおぼしき方が、批判的内容の記事に書き込みをするのを見ることがあります。その意見に対し、管理者や読者から丁寧な反論が為されるワケです。しかし、何を突っ込まれても意見を翻しません。そして納得しないまま次々に反論のコメントや自分の主張を繰り返し書き込んでいきます。それを見ているヒトなどからは、ビリーバーは説得できない、とか、あいつは何考えてるの?みたいな意見(ブックマークとかも)がついたりします。そう思う気持ちもわかりますし、実のところ私もそんなふうに思ったりはします。でも、そういう批判や非難なりを受ける方の全員が全員ビリーバーなのでしょうか。

■否定してもらいたいのかも
自分の選択した(と考えている)代替療法を多くの方が否定している、それは紛れもない事実です。でも、それを認めてしまうと今までの自分が行ってきた事が否定されてしまう。でも心のどこかで違和感がくすぶっている・・・。ではどうしたらいいの?ここでも何もしない事が苦痛になる・・・確かめたい。否定的な返事が返ってくる、でも認められない。だって認めた瞬間に全てが崩壊してしまうから。

少し昔のお話しですが、ヨーロッパでは産科医院での出産は大変に危険なものでした。それは産褥熱という当時は原因不明の熱病の仕業でした。
当時は細菌が発見されていない時代ですから、仕方のない面もあったのですが、なぜだか助産婦がとりあげる出産よりも産科医による出産により多く起こる事が知られておりました。それは、当時の医者は手を洗う習慣を持たず、他の患者の患部を触れたり病理解剖を行った手そのままに病原菌に汚染された状態で出産出産に立ち会っていた事が原因だったのです。つまり、医師は自らの行為が妊産婦を死へ導いていたのです。この事が明らかになった後、とある医師は自ら命を絶ちました。自分の行っていたことの恐ろしさと罪の意識に耐えられなかったのです。

この医師の場合は知らなかった事がもたらした結果でしたが、何度も否定的な意見を突きつけられても認めなかった方の場合はどうなるのでしょうか。
色々考えてしまいますが、その場で認めなさい、みたいなやり方はどうなのかなぁ、と私は思ってしまうのですね。その場で認めるのはまず無いとおもうので。

■自分を振り返ってみる
それほど深刻な話ではないのですが、私は自然食品大好き、化学調味料ダメ、有機野菜最高!な美味しんぼ信者だったのですね。で、現在はそんな事なくて、逆にそれらの主張を批判する立場なのですが別に誰かに説得されたわけではありません。
じゃあどうして正反対の立場になったの?と、謂えば食品学や栄養学を勉強しているウチにこれらの主張では説明できない事例が数多く出てきたからです。自分が調べているウチに出てきた矛盾ですから、反発は少なかったです。でも、それを見ても化学調味料は美味しくないからダメ、とか舌がしびれるからダメみたいに反発していたけれど、一度矛盾が見つかると丸々正しいとは思えなくなっておりました。更に色々調べると不誠実な説明が目につくようになってきました。
当時を振り返って思うのは、もし誰かにお前の主張は間違っている、コレ読んで勉強しろみたいな事をいわれていたら果たして相手の主張を受け入れたでしょうか?感情的に反論し、反論を積み重ね認めるに認められない状況になってしまったかも知れません。
自分が受け入れる事のできる態勢が整った状態にある時偶然に、自分の意思で読み始めた本に丁寧な指摘が載っていたから・・・だからこそ出来たのだと思います。

■必要なとき必要な情報に出あえるように
殻から出る準備が整っても最後の一押しがなければ自然に殻は壊れない。
準備が整ったときに以下のような丁寧な説明と出会い、そこに書かれた内容を咀嚼することができれば、その時は自らの殻を破る事が出来るのかも知れません。
【Skeptic's Wiki ホメオパシー
http://sp-file.qee.jp/cgi-bin/wiki/wiki.cgi?page=%A5%DB%A5%E1%A5%AA%A5%D1%A5%B7%A1%BC

【Skepticism is beautiful ホメオパシーFAQ】
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20070510/p1

なるべく多くのヒトの目にとまるといいなぁ



【ここから先はどらねこの個人的に思っていることで同意を求めません】

■突きつける事は暴力なのでは?

前回のネコ揉み療法の記事を読んでくださった「むいみさん」はツイッター上でこのような意見を聞かせてくれました。

@doramao たとえばホメオパシーに関する文章のうち最初に見たものが「1.自分の価値観と同じ否定的文章」「2.自分の価値観と対立する否定的文章」「3.自分の価値観と同じ肯定的文章」「4.自分の価値観と対立する肯定的文章」ってだけでも心象がだいぶ変わってきそうですね。

続いて

@doramao 1と3は共感を生み、2と4は反発を生みます。しかし、2はホメを信じなかったとしても批判批判者になりやすいのに対して4はニセ科学批判者になりやすそうです。人によって針の振れ方が異なるのは最初に見た文章もそうですけど、もともとの価値観も大きく影響しますよね。


このご意見で、価値判断をなるべく廃した問題点の指摘が大切だよなぁ、と強く思いました。

むいみさんは更に次のようにツイートされました。

どらねこさんの今日の記事を読んでこんなことを考えていました。卵の殻を外からコンコンって叩かれているのに気付いているのだけど、まだ出たくない。とにかくわかっているのは外から殻を破られたら自分が溶けて流れ出してしまうこと。自分を保てなくなってしまうこと。
だから、外から殻を破られたくない、自分で破りたい。だけど破るのは今じゃないの。もうちょっと待って、いきなり壊してしまわないで。って、かなりポエムってますが、なんかそんなイメージが浮かんできたのね。たぶん谷山さんの曲のイメージで。

このむいみさんの言葉はどらねこの中にあるあまり言語化の出来ていないニセ科学批判批判的な何かを刺激します。この言葉嫌いな方も多いと思うのだけど、この気持ち少し分かるときもあったりするんですよね。丁寧な論者ではそのような事は全くないのだけど、ちょっと見ていて辛くなることがある。ソレ単独を切り取った場合には全く問題ない言説だったとしても・・・

むいみさんのツイートにどらねこはこんな返信をしました。

どうしても目を逸らしちゃう・・・そんな事って誰にでもあると思うんだ。そんな時今すぐに直面しなさいって他者が断罪するのってどう思うよ?ある種の暴力でしょ。

よーするにね、あるヒトが暴力的行為を知らずに行っていたとしても、それを指摘するだけじゃなくて、自分も気づかないうちに暴力的対応で解決しようというのはやめようよ、と言う話。でも、そうしなさいとは謂わないし、自分はそう思うよというだけの話。

自分の中にある弱さと向き合うには準備が必要なんだ、どらねこはそう思う。