せいのはなし

暗黒猫は自分の理解が十分でない分野について語る事を躊躇しない。そればかりか、何について語るのか考える前からこのような前口上を記している事すら後悔しない。(このようなどらねこになってしまったのは、○雲先生のおかげである)
鶏和え酢、タイトルを『せいのはなし』としたのだから、それぐらいは守ろうと思うのだが、所為の話にするのか、姓の話にするのか、性の話にするのか迷ってしまう。
此処は今まであまり触れた事のない性の話を暴し論じてみようと思う。
ヒトの性というと女と男の2つの性が思い浮かぶのだが、今のところはこの二つの性が存在しないと、次世代を成り立たせるほどの繁殖は無理である。
2つの性は繁殖を行う為には不可欠であり、繁殖行為が前提にあって、我々は存在しているのである。此処までは暴論でも無いし、異論も無いだろう。
繁殖行為は必要不可欠なものだ。それと食事や排泄、睡眠も不可欠だよね。
だけど、繁殖行為に関わる性的なものだけが、厳しく制限されている。(排泄も制限があるが、性的なものに付随している部分が特に強く制限されているようだ)他者の不利益にならない事柄についてまでもね。
なぜ性ばかりがタブー視されるのであろうか。
これが繁殖戦略の為だ、等という話を持ち出せば竹○久○子さんみたいな話に陥ってしまうが、そうではないと考える。まぁ、たいした根拠では無いけど。
なぜかというと、性的にある程度オープンな時代から今に至るまでコンスタントに子供は生まれてるからね。淘汰圧とか繁殖戦略とかそういった話じゃあなくて、文化的側面が大きく作用しているんじゃあないかな、と思う。
性が文化だと謂うのではなくて、そのほかの文化的活動の価値を高める為に、性的なものが制限されてきたのではないだろうか、ということだ。
基本的には繁殖行為というものは動物的な行動である。動物的行為というのは悪いものでもないが、万物の霊長たるヒトが行う崇高な文化活動を重んじる立場の文化人にとっては酷く下品で恥ずかしい行為に見えても不思議はない。必要である事は認めても、公の場(文化活動の場)に持ち込まれたくないものなのではないだろうか。
崇高な文化活動はともかく、動物的行為をそのまま持ち込む事が文化的活動とだんだんと相容れなくなったとき、それは規制という形で現れたのではなかろうか。
しかし、繁殖活動は単なる動物的行為ではない。繁殖行為から発展した文化活動も存在する。
もう面倒くさくなったので結論を書くと、結局は文化の衝突なのではないか、と言う事だ。
つまり、多数派による社会的弱者抑圧の構図である。
ところが、『犯罪的繁殖行為』と『繁殖行為を含む文化』を十把一絡げにし規制しようとするのが、非実在性なんちゃらと言うものではないだろうか。
それは、単なる文化抑圧だけには留まらない危険性を孕んでいる。
犯罪から身を守る為には只単に犯罪を取り締まればよいのだろうか。私はそうではないと考える、犯罪から身を守る手段を身につける事も大切だろう。
性的なものを公的教育から排除した結果、危険な事を危険と認識できなくなったりしないだろうか。もしかしたら、自分がとる行為の結果何が起こりうるのかが想像すらできなくなってしまわないか。
純潔教育は子供を守らない』
あれ、何この結論?