不適切な行為に不適切な対応

まだ自分のアタマの中でしっかり纏まっていない状態なのですが、皆様からの指摘なども頂けることもあるかも、と思い記事にします。読み手のことを意識しないような書き方になっている部分が多いと思いますがご容赦を。
■前提
まず、どらねこは虐待を減らしたい。そして自分の中の虐待に親和的な部分を深く理解することで抑えたい。そんな気持ちを持っています。
そして、全体としての虐待を減らす(予防する)ためには、貧困対策だとか、啓発事業であるとか、母親の負担軽減とか色々と考えられると思います。これらは本当に大切で、その事はしっかりと訴えて行かなければならないものの、個々人があーだこーだいっても、急にかわるものではありません。じゃあ、個人のネット活動の範囲に於いてすぐ出来ることって無いのかな?そんな事を考えているわけです。そうして考えていると、子どもに対する自覚を持たない不適切な行為について、その指摘を行う事が大切なのではないかな、と思うようになりました。過酷な状況や、本人のパーソナリティが問題で生じた虐待であれば、状況を変えなければ根本解決は出来ませんが、知らないで行っていた事なら、知ることによりやめることが可能だからです。でも、そんなに簡単にはいきませんよね。そんな思いを元に以下グダグダと書きます。

■子どもへの虐待と子どもに対する不適切な行為
虐待と子どもに対する不適切な行為との間には明確な線引きは出来ないけれど、これは明らかに虐待と考えられるものから、虐待とは謂えないようなものまで様々な事例があると思います。また、社会状況や社会構成員の理解によってもその判断は変わってくることでしょう。
この線引きが明確に出来ないだけでなく、虐待には直観的に分かりやすい肉体的なものから、直接的な危害を加えない分かりにくいモノまでを含んだ概念であることが認識を更に難しくしていると思います。
■双方が認識しない
虐待や不適切な行為は、本人だけで無く、被害者である子どもですら認識されないケースがあります。どらねこが最近色々と考えているのは、この認識されないケースについてで、更に善意が大きく関連している話です。こうした話は、前提で書いた『不適切な行為に気がついてもらい、改善される事が可能』な事例なのかな、と思うんですね。

■事例でちょっと考えてみる
本人が認識しない不適切と考えられる行為について、不適切であると気がついてもらうにはどうしたらよいのでしょうか。ただ単にそれは間違いですよ、と伝えるだけで済むような簡単なケースからそうでないケースまで色々あると思います。
子どもの健康を心配して、様々な対処法を探すウチに、不適切な方法をそうとは知らずに選んでしまった場合などはその難しいケースだろうと思います。そして、虐待か、不適切な対応レベルなのかを判断することは非常に難しいことでしょう。架空の代替療法ネコ揉み療法を例に考えてみます。

ネコ嫌いだった場合
ネコ揉み療法と謂う根拠のない代替療法があったとして、『猫を抱くことでスピリチュアルヒーリングパワーが得られ、放射線による害から子どもを守ることができます』、と謂う主張を正しいものと理解してしまったとしましょう。それで早速子どもに試そうと、「さぁ、猫を抱いて!」、と子どもにあてがうとします。ところが、その子は珍しいことに猫嫌いで、そのたびに苦痛を感じていたとします。さて、これは虐待なのでしょうか?

この場合、注意が必要なのは効果の有無だけではなく、子どもの精神的苦痛が予測される事だと思います。そして、苦痛の程度、継続期間などなども虐待であるのか否かの判断に関わってくると思います。また、保護者は善意により行っており、それが虐待に当たる行為であると思いもよらないでしょうし、子どもも辛いながらも自分の為であると必至な親の姿から虐待を受けていると想像する事は難しい*1のではないかと思います。

猫アレルギーだった場合
施術として猫を抱いていると、子どもがゴホゴホ咳をします。どうやら気管支炎を起こしてしまっているようです。さて、このまま続けるかどうか?放射線は心配だし、つづける事にしました。さて、これは虐待なのでしょうか?

猫嫌いだあった場合に比べると、子どもの身体に明確な悪影響を及ぼす危険性が高く、周囲から虐待であると認識され易いとは思います。しかし、この場合でも、代替療法の施術者から好転反応です、と説明を受けていれば、本人が事態の深刻さに気がつくことは難しいかも知れません。

後で害が現れる場合
例えば、ネコ揉み療法の実施中は、猫の健康を害すおそれのある、食べ物は子どもにも与えないでくださいと謂う説明がされていたとして、それにより成長阻害や別の病気に罹りやすい状態に陥ったとします。これは虐待になるのでしょうか?

この場合は両者の因果関係を立証する事は非常に困難な事でしょう。しかし、不当に子どもの権利を侵害しているワケですから、不適切であるとは確実に謂えるでしょう。

■どうやって気がついてもらうか
一つめの方策として、ネコ揉み療法の問題点を指摘し、やめてもらうことを目指すと謂うやり方が考えられます。しかし、信用し、ある程度コストをかけている対象に対し、批判的な話を持ちかけられた場合には素直に受け止めてもらえない事が多いと思います。残念ながらとても難しいでしょう。
もう一つ考えたのが、善意も認めるし、効果についても言及しないけれど、その行為は子どもに対する不適切な対応である可能性がありますよ・・・こんな考え方があります。と、子どもへの虐待の話へと誘導することです。いきなり虐待とは謂わないで、例え善意であっても、子どもの健康を損なうおそれのある事は良くないと一般に考えられて居るんですよ、というのはまだ伝わりやすいかな、という気がしております。残念ながら大きな差は無いと思いますが。しかし、こうした視点の提供は、当事者が信用していないよりコアな代替療法を眺めた場合に有効になってくると思うんですね。ヒドイ事例を見たときに気がつけるかそうでないか、その時に気がつく側に転ぶ切っ掛けには成るような気がします。
ところで、ここまで書いたアプローチは、インチキ療法を批判するというものではなく、虐待若しくは虐待へと結びつきかねない状況に対する対応として行われるものであると考えております。

■どうやって伝えるか
保護者の方にアプローチする場合は、成るべく反発を招かないように行う事が大切だと考えます。それは理解してもらう為の手段としてだけでなく、余計なストレスは極力与えないようにしたいからです。それは親へのストレスは子どもに悪影響を及ぼす切っ掛けに成りかねないからです。保護者の不安やストレスは虐待発生リスクを高める要因の一つだからです。子どもの為を思い、行動したことが虐待へと結びつく・・・それじゃあ本末転倒だからです。全ては子どものためと思い、我慢します。
だから、親が信じているものを簡単に否定しないアプローチが大切になると思うのです。また、ネットで見聞きした事例では継続的に適切な援助が行えない可能性が高いわけで、結果的に相手を傷つけるような言葉をなげかけてしまいチャネルを閉じられたらどうしようも無くなってしまうから*2です。
信じている物を直接批判する場合には、もう一つ危険性があると思います。それは同様に正しいと思っている似たような立場の親御さん達の反応です。不適切な対応と考えられるという指摘に対し、他の方をも刺激する可能性が非常に高いからです。そうして、多数人から感情的な反発が起これば、それに対する対応も行わなければならなくなります。また、心情的には自分に近い立場のヒトに味方したいというものもあるでしょう。そうなると、まず信用してもらえなくなるでしょう。その結果残されたのは虐待発生の危険性を高めかねない、大勢の親御さんへの余計なストレスと不安です。なんの為の介入だったのか、と謂うことになりかねないのですね。

■たぶん上手くいかない
前項ではそのように書きましたが、丁寧におこなっても、たぶん実行している方には伝わることは少ないと思います。それでも、実施している療法に不審を少し抱いたような時に、指摘した内容を思い出してくれる可能性は少しは高くなりそうに思うんですよね。もう一つ、実際には始めていない迷っている親御さんがその遣り取りを見て、色々と考えてもらえる切っ掛けになると思うんですよね。投資をしていない分冷静に見ることが出来るから。だから、同じ属性の人が反発を抱くような書き方はいろんな面でするものじゃないと思うんですよ。

■他に思うことなどダラダラと

・相手のところへ此方から語りかけるのは、虐待や不適切な対応が子どもを侵害すると予測されるときやむを得ずで、それ以外は自分のところで淡々とやっていこうと思ってます。
・私はもうちょっと子どもは社会で育てる風にかわっていければなぁ、と思っております。
・善意であっても子どもを傷つけるようなことはダメ、というのがもうちょっと共通理解になって欲しい。
・新しいことを始める前には誰かに相談、そして、相談できる人を作ること。作れるように援助すること。
・虐待が起こりやすくなる状況はなるべく作らないこと、それに加担しないこと。

とまぁ、色々とあるのですが、少しずつ考えていきたいと思います。

*1:そもそも明確な虐待行為であっても親が自分を虐待していると認めない例も多い

*2:見知らぬ不特定多数の方の不幸もいやですが、一度関係を持った人のその先を心配する気持ちって強いんですよね。まぁ、そんな理由でもあります