他者へ求めるモノのダブスタ

どらねこはダブスタ野郎だ。
まぁ、多かれ少なかれ大抵のヒトはダブスタを抱えて生きているとは思う。
例えば、子育てをしている中ではダブスタなんて日常茶飯事だ。そう、自分ではいとも簡単にたいした罪悪感もなく為す行為を子供に対しては厳しく禁じているなんて事はどこの家庭でも程度の差こそあるにしろ行っているはずだからだ。子供から「お父さんだってやっているじゃない」と謂われてちょっと焦りながら「大人はいいの!」なんて強弁したりね。
そんなダブスタは子どもの事を思うが故のなんて謂えば体裁が良いが、自分が守れない事のイイワケとしてはかなり苦しい・・・てか、へ理屈レベルだったりすることもある。しかし、それは自分はともかく子供には苦しい思いや苦労をして欲しくないからなんて謂う理由であれば許容されても良いものだろう。勿論、日常の指示を円滑に行う為に採用されていてもそれはそれでイイと思う。
じゃあ、どんなダブスタは許容できないのだろうか?


■許容できないダブスタ
基本的に人間なんてダブスタあって当たり前と思っているのだけど、他者には許さないけど自分は良いと思っているようなダブスタにはちょっと抵抗がある。と謂うか、自分はちゃんとしているような気持ちで居るくせに、批難対象と同じような事を無自覚に行っているようなダブスタが気にくわないと謂った方が良いだろう。
例えば、ボクはネット上のコミュニケーションで罵倒芸みたいなことするヤツは信じられない、見たくもない、嫌いであると公言するヤツが、慇懃無礼な態度で、気にくわないヤツをドツキ回しているのをみたらどうだろう?まぁ、どっちもどっち、明確なヤツを攻撃しても良いと思う人が居るかも知れないけど、どらねこはどちらかと謂うと、自分は違う所存とか抜かすヤツの方が気にくわないんだよね。
罵倒芸みたいなのは自分が行う事嫌だけど、それは手法の一つとしてあるのはまぁ、それはイイかな、と思ったりもする。でもスジが通っていないときには支持はしないけどね。でも、そんなヤリカタが気にくわないと謂うヒトがいてもそれはそうだろうと思う。そう、自分が好きな手法でやれば良いのだ。
ところが、それぞれ勝手にやれば良いはずなのに、自分が気にくわないからと謂って、ちょっかいをだすような事が信じられない。ほっとけばいいじゃん?で、そのちょっかいの手法がまた姑息なんだ。例えば、気にくわない相手が書き込んだ内容に対し、相手が見えるような手法で文句を付ける。そして、相手が反応しても知らない振りをするか、慇懃無礼な態度で対応する。あるときは、こんな事謂うヒト信じられませんよね?とか、あり得ないと周囲にアピールする形であげつらうのだ。それだけじゃなくて自分の管理ページで言及したりね。
それって罵倒芸よりタチが悪くないか?やってることは正義(若しくは科学的な妥当性)の名の下に相手をあげつらう下品な行為ではないか?その自覚がないだけにどうしようも無いと思う。


■他者へ要求するのは態度ではなく語られる内容だろう?
どらねこはそんな感じの人が気にくわない。相手もそう思うだろう。それはそれでイイと思うけど、それだけではイケナイ気もするんだよね。ニセ科学だ、疑似科学だと言及をする活動には大きなマイナスになるような気がして成らない。
妥当性に欠く中身の割に主語を大きくする事と妥当性を欠く内容に対し指摘する時の形容が過大であったりこんな表現をつかうのがシンジラレナイみたいな挑発的なものであったりする事のどこに違いがあるのだい?