努力と善意

※注意※今回のエントリは個人的な戯言です。ちょっと読んであわないな、と思った方は先を読まないことをお奨めします。内容もたいしたこと無いです。
■『努力は報われる』
どらねこはこの言葉がとても苦手だ。どーしてなのか簡単に説明すると『先天性努力が難しい病』だからだ。
じゃあ、努力を怠ってきたのであれば、今のアンタは何にも実現できていなくて、相当に不幸なんじゃないの?と、謂われるかも知れない。で、ちょっと考えてみる・・・う〜んどうなんだろう?努力の量の割にはそこそこ生活できてるし、幸いなことに阿呆を呟く余裕なども持ち合わせている。しかも可愛らしい妻までいるわけで、運の要素が大きいのだなぁ、と思ってしまう。
本当に努力の量で幸せの総量が規定されるのだとしたら、どらねこは絶望的な人生を送ったことだろう。しかし、この言葉が苦手だからといって、努力は報われない方が良いとは全く思わない。努力している方が報われるシーンなどはフィクションなどでも大好物なのだ。
努力している人が報われて欲しいというのは願望だ。願望は願い望むから願望で、願うだけなら祈ることと大差はない。願って、祈ってそれだけで何らかの影響を期待すると謂うのは呪術である。実はどらねこは呪術が好きなのである。
努力は報われると謂う言葉は体の中から何らかの力を引き出す魔法の言葉だ。まさしく呪術だ。努力→結果と謂う単純な因果関係で結ばれた呪術はどらねこの心にモチベーションという大きな力を一瞬だけ与える。しかし、短期間の努力では結果は目に見えて現れることなんて少ないからそのモチベーションは奇麗さっぱりきえてなくなってしまう。そうして、短期間で結果の出た物ばかりに労力をかける事をおぼえて、今の今までやってきた。
中にはどらねこと違って、ちょっとの失敗などものともせず、いつか報われる事を信じて、努力を続ける凄いヒトタチがいる。その中には大きな結果を出す人もいるだろうし、そうでない人もいるだろう。努力の総量が反映すれば良いんだけど、それよりも何に対し、どのように労力を費やしたのか、そっちの方が重要であり、さらに持って生まれた素質や、周囲の環境など、本人の努力や想いだけではいかんともし難い要素が非常に大きな比重を占めていたりする。
でも、そんなコントロール不可能な部分が有ることを無視して、結果について努力の量で判断しちゃうような場面を色々見かけたりする。周囲だけでなく、本人も努力は報われるものと理解していれば、自分の努力不足を責めてしまい、よりいっそうの不毛な努力に足を踏み入れてしまう危険性が高そうだ。見ていて辛いよ、ホントにね。努力できないモノのやっかみかも知れないけれど。

■善き願いは叶うもの
善行も同じように報われるべきと考えられるものじゃないだろうか。勿論、どらねこだって良い結果を想像しながら相手の為を思って何かの行動をする場合がある。しかし、必ずしも上手くいくとは限らないし、結果的に悪い影響を及ぼす可能性だってあるだろう。でも、相手によかれと思って行動したときに結果が思い通りに成らなかった場合には認める事はなかなか難しい。勝手なもので、自分の行動自体は正統なものであったのに、偶然失敗してしまったとか、別の原因があったから、などと考えようとしている自分がいる。まったく勝手なものだよね。結果が良ければ自分の行動のおかげ、そうでなければ他の要因が影響・・・と。善意であれば報われるものだから、それがどんなものでも誰彼構わず奨めても問題ない。極論すればこうなるのかな。なんとかの架け橋なんてこんな理屈だよね。

努力も善意も我々にとって社会を動かす大切な要素ではあるけれど、それがあるからと謂って無批判に肯定される事は決してないのだよね。
呪術は僕たちに行動するエネルギーを与えてくれるけれど、結果を何にも保証してくれない。少しずつ蓄積をした知見に照らし合わせることで、見通しをもって先に進むことが科学になるんだよね。科学と呪術は相反するものではない・・・けれど適用できる場面が違うって事を忘れちゃイケナイよね。
なんとなくそう思った。