いまさら(?)絆

「絆」といえば、日本漢字能力検定協会が発表した2011年「今年の漢字」第1位であったように、震災後の日本においてよく耳にしましたが、主にマスメディアを通してこの言葉が発信されていたようにどらねこは記憶しております。今更ですが、この「絆」という言葉について当時を思い起こしながらどらねこの考えを書いてみようと思います。


■当時思ったこと
「絆」という言葉からどのようなイメージを持つかというのは人それぞれでしょう。しかし、近しい間柄のつながり、離れがたい結びつきを示す言葉である事はある程度共有されているように思います。これはどちらかというと肯定的な意味合いですね。昨年の震災当時、停電で近しい人と連絡がとれなくなった時に、その無事を思う気持ちは被災地やその周辺で共有されていた思いだったでしょう。その気持ちが想起されていた時にしっくりと来る言葉、それが「絆」だったのではないかなぁと感じるんですね。
ところが、テレビなどでやたらと絆という言葉が流れ出した頃からどらねこは違和感を持ち始めました。「絆は大切ですね、もっと多くの方と持ちたいモノです」とか「日本国民の絆を実感しました」というようなニュアンスの言葉が聞かれるようになった時には、もうききたくないよ!という心境になっておりました。その当時はいつものひねくれ者な性格がそう思わせているのだろうなぁと、そう深く考えませんでしたが、先日ある本を読んでいる時にその正体らしきものを掴んだような気がしました。


■紐帯
紐帯という言葉があります。「ひも」と「おび」という二つの言葉から成り立っているもので、ともに結びつけるモノという事が転じて、人々の様々な社会的結びつきを表す言葉として用いられております。社会学などでは親子や非常に近しい間柄、共同体のメンバー間などの強い結びつきを「強い紐帯」、さほど互恵関係にないような弱い結びつきの関係を「弱い紐帯*1」と呼んだりします。昨年、様々なところで用いられた「絆」はこの「強い紐帯」的な意味合いで用いられたのではないかと思いました。


■日本国民の強い紐帯
家族や近しい人の間にある強い紐帯を「絆」とするならば、それが「大きな危機」によって再確認され、各人がそれを良い機会としてこれからはもっと大切にしようとか、今まで話せなかったことも伝えようとか、そんな方向に向かうのならばそれは本当に良いことだと思うんです。ですが、それぞれが絆を大切にしましょう!というかけ声を国レベルでかけ声をかけて行うなんてのはちょっと外れているような気がするのですね。
それだけならまだ分からないでもないのですが、相互関係を持たない、直接の利害関係の無い他者についても「絆」で結びつき、一つになろうみたいなキャッチコピーは的を大きく外しまくっているのでは無いかと思ったわけです。「絆」が用いられた文脈は、前者の「強い紐帯」を意味するようなものであり、後者の「弱い紐帯」的なものは意識されていなかっただろうからです。不特定多数の国民同士が「強い紐帯」を持ちましょうなんてまったく現実的では無いでしょう。「絆」という言葉のイメージに引きずられているところが大きかったんじゃ無いかな、と思います。後でこの「絆」という言葉の持つ意味についてもう一度言及します。


■外部からの大きな脅威
(ええと、ここから先の話は少し強引なところがあるとおもいますので、割引いて読んでいただければと思います)
「国民が一丸となって・・・」
危機に際して、皆の力を合わせて対抗しましょう。これだけを見ると素晴らしいことのように思ってしまいそうですが、強い結びつきはそれぞれの行動を束縛します。どらねこはあまり他者から縛られるのは好みませんので、束縛があるとしても必要にせまられ仕方なく受け入れるみたいな感じです。これは程度問題ですが、喜んで自身を束縛されたい人はあまり居ないと思いますので、国民がお互いの自由を犠牲にし、物事に対し一丸となって対処するというのは、そうとうにヤバイ状況下ではないと続かないと思うんですね。
そんな状況ってどんなものだろう・・・。おそらくそれは外部からの大きな脅威にさらされた時だと思うんですね。例えば自分たちと同等、或いはそれよりも強大な相手との戦闘状態になったときなどです。この時には集団を維持するために、個々を犠牲にし、相手の集団に対し総力を以て対抗する事が求められる*2でしょう。ところで、今回の震災ではそれほどの脅威があったでしょうか?少なくとも、外部からの脅威ではなく、問題の多くは内部に存在しているのですから、強い紐帯を以て対処しなければならない種類の問題では無いと考えられるでしょう。


■敵はどこにいる
「絆」として「強い紐帯」を謳ったのだけど、実は大きな脅威は存在しなかった。そんな状況では「強い紐帯は維持できません」いや、元々なかったのでしょう。しかし、「絆」を謳い、鼓舞され盛り上がった気持ちは何処に持って行けば良いのでしょうか。そのような昂ぶった感情で原子力発電所事故を眺めたら、事故の当事者や、これまで推進してきた団体等が外部の脅威に見えたなんて事もあるのかも知れません。
本当にそんな事があるのかどうかは分かりませんが、それぐらい大きな集団に「強い紐帯」を維持することは難しいモノなのだと思うわけです。なので、「絆」なんてどこにいったの?なんて現状はある意味健全なんじゃないかなと、どらねこは思います。


■きづなとほだし
ところで「絆」と聞くとなんだかポジティブなイメージを持つ方が多いと思いますが、その意味を調べると実は肯定的な言葉ではない事がわかります。元々は、家畜をつないでおく為の綱を意味するもので、相手の意志ではなくその場に繋ぎ止めるという意味合いを持つ言葉なのですね。共同体の「絆」というのは共同体の利益を優先し、そのためにお互い綱でしばり合うようなものなのです。
さらに、「絆」は「ほだし」とも読まれたりします。大辞林より引いてみますと・・・

絆し(ほだし)
〔補説〕 動詞「ほだす」の連用形から
[1] 刑具として用いる手かせや足かせ。[名義抄]
[2] 人情にひかされて物事を行う妨げとなるもの。自由を束縛するもの。きずな。

大辞林より

「絆」というポジティブなイメージとは正反対に見える、強制的な意味合いを強く持つ言葉である事がわかります。


■きもちわるさの正体
「絆し」という言葉の持つ意味を眺めていると、個々人から自発的にわき起こった「絆」を思う感情には違和感を持たなかった事に対し、「国民全体」という言葉で語られる「絆」を気持ち悪く感じた事の正体が分かるような気がします。
「絆」の名の下に、個人の心の中に土足で踏み込まれる不快感を感じていたのかもしれません。

*1:最近影響力が大きくなりつつあるSNSの繋がりなども弱い紐帯の一種ですね。弱い紐帯をつなぐブリッジを維持するためのコストをかけられない事から、容易に壊れてしまうという特徴がありましたが、SNSでは比較的低コストで維持ができそうかな、なんて思うのでこれらの繋がりは今までよりも強く、長い間維持され新しい関係を今後築いていくのかなぁ、なんて思ったりもします

*2:集団を維持したくないと思えば別ですが