もうダマされないための「科学」講義の2章を読んで気になったこと

『もうダマされないための「科学」講義』の感想については引き続きこちらのシリーズ書いていきますが、それとは別に個人的に気になった部分を独立した記事としてアップいたします。
そんなのは貴方の杞憂に過ぎないとか重箱スミだみたいな批判も受けそうですが、気になったので放置しないで書く事にしました。それは伊勢田哲治氏によって書かれた2章の『科学の拡大と科学哲学の使い道』の事例の使われ方などについてです。本を未読の方でも分かるような配慮はあまりしておりませんので、どうぞご了承下さい。あと、たぶん面白くないです。


■生態系に価値はあるのか

p75-76より
リチャード・B・プリマックによる教科書が日本語にも翻訳されていますが(『保全生物学のすすめ』文一総合出版)、その第一章を読むと「生態系には本来的に価値があるのか」という問いが最初に掲げられています。生物学と銘打った本の最初の章に、生態系の価値をめぐる議論が書かれているのに驚かれるかもしれません。しかし、生態系を保存する、あるいは絶滅危惧種のランク付けをするといった場合には、集団遺伝学的な知識を使って「これ以下の個体数になってしまうと、この集団はもう存続できない」という計算を行います。このようなシミュレーションの目的そのものを議論しているわけですね。

では、本来的に価値があるのかどうなのか、どんな議論が交わされ、現在の理解はどうなっているのかの説明が後で為されるのかと思い、読み進めても自分にはその答えを見つけられませんでした。私の読解力が不足している可能性もありますが、何か肩すかしをされた感じを持ちました。

【自分で調べた範囲の理解】
どうやら生態系や生物多様性の価値観については多様な意見があるようです。まず、人の役に立つかどうかの価値観がその一つで、森林が多ければ二酸化炭素の吸収が期待されるから森林保護するというものから、森林浴は気持ちいいから大切にしようというものなどをいうようです。もう一つは他に役立つか役立たないかに限らず、生物には生きる権利があるという無条件の価値観です。でも役に立つかどうかだけで考えてしまえば、既に生態系での機能はあまり無いはずの希少種の保全を訴えることはできないでしょう。生物には生きる権利があると謂う主張も弱いように思います。
そこで、別の面から多様性を捉えようと謂うものが、歴史的価値観だとされております。進化や生態系などの固有性は長い歴史によって作り出された物であり、一度壊れてしまえば再生が容易でない若しくは不可能だから大切にしよう、というものです。この視点から考えれば、喪われればそれでオシマイの種の保存を優先に考える事にも納得がいきます。更に里山などの人間の入りこんだ自然を維持することの重要性もこの歴史性の尊重で説明できるのですね。
生態系の保全に対するアプローチはこれらの価値観のバランスは個々人により異なるものであり、「これだっ」という正解は無いのかも知れません。なので、合意の形成プロセスが大事なのだろうな、と素人ながら思ったのでした。


アサザについて

p78より
ローカルな知とは、科学的に検証されたわけではない、民間の中で培われてきた知識ということです。それが非常に重要な役割を果たすのが、保全生態学のある種の特徴ですし、ある意味ではモード2的な科学全般の特徴でもあります。

そのローカルの知を紹介する事例として選ばれたのが、霞ヶ浦アサザプロジェクトの取り組みです。伊勢田氏は本文中でアサザについて次のように書いています。

p79より
具体的に何をしたのかというと、アサザという絶滅危惧種水草がありまして、他の場所ではほとんど絶滅していました。しかし、アサザこそが、実は植生において非常に重要な役割を果たす植物ではないかということに気づいた。

私はこの記述を読んだあと、実際のところどうなんだろうと疑問に思っておりました。実は先日、井の頭自然文化園へ遊びに行った時、池にはアサザが繁茂しているのを見ていたからです。日本のレッドデータ検索システムでアサザで検索すると次のような指定状況となっているようです。
画像はhttp://www.jpnrdb.com/search.php?mode=map&q=06040163755より

現状では環境省カテゴリでは準絶滅危惧(NT)となっており、絶滅危惧種ではありません。また、他の場所ではほとんど絶滅していると謂う状況とまではいえないと思います。勿論、全く安心できる状態ではありませんが。

伊勢田さんがそのような基本的な事を知らないはずは無いと思いますので、おそらく書き方の問題だと思うのですが、最初の何の為の生態保全なのかと謂う問いをそのままにしたことが関係しているのではないかと私は思いました。アサザのおかれた状況についても誤解したまま先を読み進めれば、アサザプロジェクトが何の為に行われているモノなのかについても更なる誤解を招きかねないように思います。伊勢田さんの文章を読む限り、霞ヶ浦における環境保全事業がアサザと謂う種の保全を目的にしたものであるように私には読めたからです。

霞ヶ浦の事例を理解してもらいやすくする為には、生態系の維持が人の役に立つのかという価値観、生命は無条件に尊重されるという価値観、そして種の保全の観点を含む歴史的価値観の尊重と謂う多面的な視点で見る必要のある問題であることをキチンと説明しておいた方が良かったように私には思えました。これだけではわかりにくいので、次の項で更に詳しく見てみます。


■本当にアサザは大丈夫なのか

p81より
このような努力を重ねた上で、小学生が育てたアサザを植え付けていくと、今度は順調に育ち、今では立派に繁殖しています。
 この場所はその後もずっとモニタリングが続けられています。私がこの場所を見に行ったのは2008年の夏ですが、順調に生態系が回復しているという印象を持ちました。

引用文を見る限りでは、霞ヶ浦アサザはプロジェクトにより、活力を取り戻し、それに伴い地域の生態系が取り戻されたように読むことが出来ます。しかしながら、アサザと謂う種の保全についてなのか、それとも霞ヶ浦の生態系保全の目的を何処に置くのか、その力点によりこの問題に対する認識は変わってくるように思います。河川環境総合研究所報告第14号平成20年12月*1の『霞ヶ浦湖岸植生保全対策のモニタリング・評価と順応的管理』という報告書には、この事業によって平成18年の時点では霞ヶ浦全体の生態系回復ができている事を報告しております。

報告p94より
霞ヶ浦湖岸植生の保全対策工の整備により、植生面積は整備前の約7haから整備後5年で約16haに増加し、種数においても沈水植物を除き、1970年代と同程度以上の再生をみた。また、整備した植生生育場も多少の地形変動はあるが、概ね安定するなど、一定の成果が得られた。

このように霞ヶ浦の生態系の維持と謂う観点で見れば一定の成果が得られていると考えられます。また、里山的環境の保持と謂う歴史的価値観からの保全もできているように考えられます。

ところが、立派に繁殖しているように見えるアサザについて、実は危機的状況を脱していないと専門家は指摘しているようです。私ははじめの部分でアサザのレッドデータ状況を引用し、別の地域でも絶滅していないと書きましたので、逆のことを書くように思われそうですが、種の保存の観点から見ると、まだまだ予断を許さない危機的状況であるようなのです。霞ヶ浦アサザの保存に関わった西廣淳氏のwebサイトのコンテンツ*2では次のように説明されております。

西廣氏のページより
アサザは地下茎によるクローン成長を盛んに行う多年生植物です。日本国内の60箇所以上の場所に残存していますが、それらのほとんどは1から2個体(genet)が地下茎によるクローン成長で拡大した群落です。その中で霞ヶ浦は、2000 年時点で18 個体を含む日本では「最大」の個体群を擁する自生地です。異型花柱性の繁殖様式をもつアサザが種子繁殖を行うためには、長花柱型と短花柱型という繁殖型(遺伝的多型)の間での受粉が必要です。これらの多型が一つの個体群に含まれており、自然な送粉による種子生産が可能であると考えられる(稀に起こる自殖を除く)自生地は、霞ヶ浦のみであると考えられます。

さらに現状についても

西廣氏のページより
私たちは個体数回復を重視する観点から保全対策の提案をし、実践もしていますが、まだ十分な成果が得られていません。霞ヶ浦アサザ個体群は依然として極めて危機的な状況です。特に、2008年から再び衰退傾向が認められています。個体群衰退後も数年間は認められた土壌シードバンクからの実生出現も、ほとんど認められなくなりました。アサザは絶滅の危機にさらされています。

と謂う評価をしております。つまり、アサザという種保全を重視する価値観から見れば、危機的状況は回避されていないと考えられます。仮に14号報告書の時点の評価で考えて見ますと、生態系の中のアサザの繁殖面積で考えれば順調な成果と謂えるでしょう。しかし種のアサザと謂う種の保全と謂う評価で考えると十分な成果ではないとも謂えることでしょう。そうなると小学生が育てたアサザはどのような貢献をしたことになるのでしょうか?実際に種としてのアサザ保全に対し、どの程度の貢献をしたのかを評価することは出来ないでしょう。
このように、最初の部分でなぜ保全を行うのか、と謂う事に対し、筆者が回答を行わないままに本論に突入したことが、誤解を招きやすい構図をつくり出しているように私には思えました。



■粗朶について
もう一つ、霞ヶ浦アサザ再生に貢献したとされるローカル知のシンボル『粗朶』の紹介のされ方にも気になるところがあります。

p80-81より
 この工事の中でも、粗朶による消波堤が重要な役割を果たしました。波が非常に強いので、粗朶がそれを食い止めるのです。木組みをつくり、その中に木の枝を入れる粗朶は、水は通過するのですが、波は消せる。
 この知恵自体は昔からあったもので、コンクリートの堤防だと生態系が切り離されてしまうという問題を、昔からの手段によって解決したわけです。

科学的に検証されたわけではない民間の中で培われてきた知識であるローカルな知の事例としてこの話を持ってきたのは分かるのですが、ローカルな知の持つ危うさについても言及して欲しかったなぁ、と謂うのが正直なところです。これだけの記述ならばそれほど心配しないのですが、p85には次のような記述があります。

p85より
また、霞ヶ浦のケースの伝統的生態学的知識のような、明らかに科学とは見えないものが、ある意味で科学と同等の権威を持つ状況になってきますと、科学かどうかはどうでもいいのではないか、という考え方も出てきます。

本当に『明らかに科学とは見えないものが、ある意味で科学と同等の権威を持つ状況』なのでしょうか?
私は当ブログで、食育などで採り上げられる昔ながらの生活習慣や伝統の日本食が○○に良い、と謂う言説の逸脱について批判的に言及してきました。これらもある意味ローカルな知であると思うのですが、どうしても昔ながらの、と謂う言葉がつくと無批判に受け入れられがちになる傾向*3があるように幾つかの事例を見てきてその思いを強くしております。それは本書のテーマであるはずのダマされてしまうような言説に紛れ込んでくるモノです。巻末付録にあるマクロビオティック項目で言及されている伝統食品の味噌が放射線障害に効くと謂う話がその一例でしょう。伝統知には科学と同等の権威があると謂う記述は、伝統の○○と謂う言説に対するハードルを下げてしまうような気がするのです。この本は専門家に対して書かれたものでないと筈ですので、そのような心配をしてしまうのです。

また、粗朶の評価についてもう一つ気になるところがあります。伊勢田さんは粗朶の流出など問題点があることもキチンと指摘しているのですが、そもそも昔ながらの粗朶を用いた対策は、その他の対策に比べても優れたモノであったのでしょうか?そうでなければ、明らかに科学と同等の権威を持つとはいえないでしょうからです。
先ほど紹介した河川環境総合研究所報告第14号平成20年12月のと謂う項目に記載されております。そのp90には次のような評価が書かれております。

河川環境総合研究所報告第14号p90より

生育場に関する評価では保全工区と同様に、粗朶消波工に課題が残るものの養浜工、シードバンク、人工バームが有効であることを確認した。とされており、粗朶消波工がその他の対応策にくらべ特別優れた効果を発揮したようにように私には読むことはできません。そもそも、市民参加型プロジェクトで協同を引き出す為のシンボル的な物であるからこそ、地域の木を使用した粗朶である必要があったのでしょう。それは伝統的な粗朶自体の機能とは切り離されて論じられる部分だと思うのです。


■昔ながら伝統の危うさ
こうした粗朶をシンボルとして用いる手法には私の関連していた分野でも似たような構図を見つける事が出来ます。
例えば、自分の関連していた分野の食物や食品成分についての研究についても、昔ながらの知恵を参考に、と謂う、産学官連携プロジェクトが多いのです。この地域で昔から風邪の時に飲んでいた、とか先人の知恵から、新たに健康効果が見いだされた、と謂うような発表がよく行われます。伝説や伝統を尊重する文脈が用いられると、地元の方の理解や協力がスムーズになりプロジェクトの進行は円滑になるし、研究費も心配ありません。ところが、これは良い事ばかりではありません。実際に確認された健康効果は極めて限定的であったとしても、地元の方達や企業の方は大々的に宣伝して売り出したいと考えるのですね。また、最初に期待されていた程効果が無い事が後から分かったとしても、後押しをした方々に納得して貰う事は難しいのです。粗朶の問題でもそのあたりが気になるのですね。自分たちの切り出した木をつかった粗朶についてこんな弊害もありますよ、と謂われたらすんなり理解を示すヒトもいるでしょうが、そうでない人がいたとしても不思議はありません*4。やっぱり私は心配性なんですね。
でも、アサザプロジェクトのwebサイトにはこんなページがあるんですよ。改良されていない粗朶の写真が掲載され、まだまだ必要と説明されているように見えるのですが・・・。参加した市民の感情に配慮しているのかもしれませんね。

以上でこのエントリを終了致します。不適切な引用や記述があればご指摘頂ければ幸いです。伊勢田氏の文章はとても有用な提言や指摘があるなぁ、と思って読みましたので、誤解を招きそう(に私には見える)この記述は勿体ないなぁ、というのがエントリにした動機ですので、どうかその辺は理解してやって下さい。本論で述べている事などについては、シリーズで言及したいと思っております。

*1:http://www.kasen.or.jp/kasenlib/PDF/REP-No14.pdf

*2:西廣淳氏:東京大学農学生命科学研究科生圏システム学専攻保全生態学研究室http://www.coneco.es.a.u-tokyo.ac.jp/jn/asaza_opinion.html

*3:期待の確証だけでなく、ステロタイプも影響しているのでしょうね

*4:市民にまず参加して貰う、と謂うのは悪いコトではありません。認知的不協和の実験などで得られた知見からは、強制されたり不本意ながら為された行動でも、実際の行動にしたがって態度が変わる傾向があると謂う事が観察されてます。なので、環境問題に興味が無い人もまず参加して貰うと意識が変わってくる可能性があるんですね。なので、市民に参加をして貰う為のシンボルであると割り切れば有用なものである事に異論はありません